sukikatteni’s blog

好き勝手つぶやいてます。

舞台「チャイメリカ」感想のような整理のような(ネタバレあり)


同じものを見ていても、人によってその見方は大きく異なる。

上から見たり下から見たり、色や形に注目したり、その対象が目の前に来るまでの経緯は?これから先どんな影響を及ぼすのか?、自分にとって糧となるか否か…

まなざしは人の数だけある。

チャイメリカという舞台は、そのまなざしの物語だった。
ジャーナリズムという皮切り。そこから切り進め見えてきたのは登場人物達のまなざしが交差しすれ違いながら、まなざしにそのものに翻弄される姿だった。
救いやカタルシスがあるわけではなく、観客としてただその光景を見続ける。
その結果どこかに問いかけはないかと探し考え、自分自身の中のまなざしと対峙する、そんな舞台だったように思えた。

 

 

今回前半に当日券チャレンジで2回の観劇の機会に恵まれ、この感想に至るわけですが、多分、割と長くなりました。

題材、作品の内容、役者さんスタッフさん、舞台装置…多くの見所に対して、あれもこれもと感想を打っていたら終わりが見えず、言いたいこと打ち続けていたらこんなところにきてしまいました…。オチがねえ…!みたいな。
いやでも私が個人的な事情(サメと泳ぐ感想にて記載)で、感想をしゃべる先がここしかないので!ネットの海にこの感想を流すことで誰かに話を聞いてもらってる気になれるんで!!
本当完全に自己満足のための感想です。もし最後まで読まれた方がいたら、話を聞いてくれてありがとうございます!って気持ちでいっぱいです。

なお、この感想を書くにあたって基本的には見た舞台の記憶を辿って記載しているのですが、細かい日時やセリフに関しては「悲劇喜劇2019年 03月号」掲載の戯曲チャイメリカの記事にて確認・記載している箇所もあります。ご了承ください。

そんなわけで「チャイメリカ」感想です。
当然ながらネタバレを盛大に含みます、というか息を吸うようにしてます。
観劇前やネタバレ回避をしている方はご注意ください。

 

 

 

まなざしの視点

ヒーローの立ち位置

ひとつの社会(もしくは社会的事象)を捉えるとき、社会学では「方法論的集合主義」と「方法論的個人主義」とよばれる視点がある。
前者が「個人は社会の一部 (社会で起こる事件や事象が個人に一方的に影響を与える)」のに対して、後者は「個人の集合が社会を作る (個人の集まりが社会を形成し影響を与える)」という考えだ。
この2つの視点はどちらも正しく、そして相反している。
でもどちらも誤ってはいない。
どちらも同じ景色を捉えてはいて、ただフォーカスを当てている先が違うだけだ。
社会全体の景色をとらえるか 、その中で動く自由意思をもった個々人をとらえるか。

チャイメリカでは「天安門事件」「戦車男」という歴史的事件を中心に「この事件が登場人物達にどういった影響を与えたか」というまなざしと「登場人物それぞれの意思や思惑、言動が絡み合い、事件の姿が形作られていく」というまなざしそれぞれにフォーカスを何度も切り替えていく。

キーマンとなるのが「戦車男」となるわけだが、この存在なかなか厄介だ。
ジョーは劇中で度々戦車男のことを「ヒーロー」と呼ぶ。

「ヒーロー」は個人の集まりの中の代表的な存在もしくはカリスマであり、それ故に個人でありながらひとつの社会そのものの象徴である。
本来一人の人間でありながら、社会と同様の存在になりうる概念だ。

ジョーは戦車男を「社会と同様の存在であるヒーロー」として捉え、その行方を追っていく。
「社会に立ち向かうヒーローの姿」を追い求めるジョーの戦車男に対するフォーカスは常に社会全体を捉えている。
わずかな可能性とワン・ポンフェイという名前をもとに様々な手段を用いて戦車男を追い求めるジョー。
ラストシーン、ようやく辿り着いたヒーローの正体。
そのフォーカスを「ヒーロー個人」に絞った時、表れたその姿は追い求めたようなヒーローではなかった。
中国社会に翻弄され自身の存在にもがく一人の人間だった。


用意されるまなざし/無意識のまなざし

「 ―――1枚の写真、それはアメリカ人によって撮影されたもの
白いシャツを着て、買い物袋を二つ下げた中国人の男が隊列を組む戦車の前に立っている
それはヒロイズムの写真である
それは抗議の写真である
それはある国を別のある国がとらえた写真である」
(チャイメリカ あらすじより https://setagaya-pt.jp/performances/201902chimerica.html )


チャイメリカのあらすじにおいて「アメリカ人によって撮影された、戦車の前に立つ中国人男性の写真」という客観的事実に対し、
「ヒロイズムと抗議と別の国の写真」というまなざしを添えるところからこの戯曲のトリックは始まっている。(これは本当にうまいと思った)
このまなざしの持ち主はジョーであり、観客に対して整えられ提供された視点でもあった。

19歳のジョーの瞳に映った戦車男はまさしくヒーローだったであろう。
政府が自国の民を虐殺する現場で、たった一人で戦車の隊列の前に立ち塞がり行進を妨害する青年。恐らく自分と同じくらいの年。
ジョー自身も追い詰められた状況だ。いつ中国政府の憲兵が入ってくるかわからない、見つかれば自分だって安全な保証はない。
そんな中ジョーはその一瞬を逃したくないと無我夢中でシャッターを切る。
瞬間、ジョーの瞳はまぎれもなくヒーローを捉えていた。

そしてその切り取った光景は、同じ瞬間を捉えた写真達と共に世界に衝撃を与える。
中国政府の虐殺に対し批判的な立場のまなざしが世界に向けて共有される。
戦車男、無名の反逆者、タンクマン。
様々な呼び名を持つ正体不明のヒーローが世界中に広がっていく。

その「世界」ってどこだろう?
ジョーが言う衝撃を与えたい世界はどこだったのだろう。

明言されたわけではないが、おそらくその対象は欧米諸国のことをさしていて、かつその範囲の選択は登場人物たちの中では無意識的に行われているのではないかと思った。


写真の限界/まなざしの共有

写真は正確にその一瞬の景色を切り取る。
でも感情はうつさない。そこに至る経緯も理由も。
見る人次第で印象は変わる。
まなざしの共有はどこまで可能なのだろう。

「世界で一番汚染されている川で魚釣りをする子供達の写真」を「いい写真だからカードのイメージに使いたい」とテスが言ったように、同じものを見ていても知らなければ見える景色は大きく異なる。

タンクマンの写真も同じだった。
ヂァン・リンの意思を差し置いて、彼は無名の反逆者になっていく。
アメリカで、西洋で、中国以外の国で。

中国のヒーローはワン・ポンフェイだった。
リウ・リとヂァン・リンと同じ大学にいた男子。
戦車を操縦した兵士。
撮影したジョーが「悪役」として捉えていた政府側の人間。

非人道的な虐殺をしたと非難が集まる中国政府は、そのイメージを払拭し実際は人道的な措置をしたというイメージを植え付けるために戦車男の写真を利用していた。ジョーがとらえたまなざしとは異なる意味で写真は利用されていたのだ。
「その宣伝にあなたも一役買ったんだ」と告げるヂァン・リン。
追い続けたワン・ポンフェイが戦車男ではなかったこと、そこに至るために様々な人と別れを告げる結果となったことに対して落胆するジョーに、ヂァン・リンのこの言葉は届いていたのだろうか。

ジョーとリンは同じ「戦車男」の話をしている。
でもそのまなざしどこまでもかみ合わないし、平行線だった。最初から。
だってジョーの中の戦車男はこう言っているのだ。
「大虐殺の真っ最中に、抗議しに出てきたんだ「これは間違ってる、間違っている。だから、誰かがそう言わなくちゃいけないんだ」って」
それを聞いたヂァン・リンはどんな顔をしていただろう。


ジョーという人について

一度まなざしの話は置いて、主人公のジョー・スコフィールドについて考えてみた。
(主人公という肩書が正確なのかはわからないが、間違いなく彼はこの話を動かしていた人ではあったので。)

見えぬ人物像

正直演じるのが難しい人物だっただろうなあと思う。
支持する政党、ジャーナリストとしての明確な意思、リンに対するグアンシー、テスに対する愛情……戦車男に対する興味以外のことについて劇中ジョーの明言はなく、何を考えているのか掴みにくい。
今回確認で悲劇喜劇を何度か読んでいるのだが、文字で読むジョーはどちらとも取れるような意思のつかみにくい存在だった。
恐らくこれはルーシー・カークウッド氏の意図的なものと思う。それは観客に余計な先入観を与えないことで、観客がジョーの視点を入り口に物語に入っていくことができるようにするために。
ジョーが記者ではなくカメラマンなのも、「まなざし」という視点に特化させるためのものであったと思われる。

圭モバ等方々での田中圭氏の発言からするに、田中圭氏自身もジョーという人間を演じるにあたってかなり試行錯誤されているようなので、見た回によって(あと誰に感情移入するかで)ジョーに対する印象はかなり違うかなとは思うのですが。
(というか後半にかけてつかめてきたという感じの旨のこと言ってたので、つかめたジョーってどんなんなんだ~~~~~~ってめっちゃ気になるんですが…!)

私が見たジョーは「人並に優しく人並にいい人。理想にまっすぐで、その状態を維持するために家庭や車を持たないようにしているようにも見える。ジャーナリストの一人として仕事に対しプライドも自分なりの考えも一通りある。ただ19歳のあの瞬間に心が色んな意味で縛られて抜け出せず子供のままとも言える人。」だった。

ジョーの目指すもの

冒頭、ヂァン・リンと再開したジョーはリンに対して戦車男について語るのだが、その中のジョーのセリフを聞いたとき妙にひっかかった。

「あれから23年たつけど俺は何一つできていない。あいつの足元にも近づけていない。どうすんだよジョー。」

アパルトヘイト運動に身を投じたネルソン・マンデラは政治家で後ろに支援者が大勢いるのに対し、戦車男は買い物袋以外何も持っていない、だからこそすごい、と弁をふるうジョー。
リンは「ジョー自身もカメラ一台だけが持ち物だ」とどこか戦車男に対し含んだような物言いをするのだが、対するジョーの応えがこの自身への問いかけだ。
ただ戦車男に憧れるのではなく、同じような何かになりたいと言うかのような。

だって写真をとってまなざしを提供するだけなら23年のキャリアの中でジョー自身が何度もしているだろうことは想像に難くない。何一つ出来ていないとはどういうことなのか。

ジョーは何かを残したがっている。

それは舞台が進むにつれて輪郭が見えてきた。
おそらくそれは、わかりやすい地位や名声ではなく、戦車男を撮った時のような偶然の産物で得た注目でもなく。
「彼自身の意思を持ったまなざしで世界に衝撃を与えること」だったのではないか。
そしてそれは「ジョー・スコフィールド」という存在なくしては生まれなかったもの。
社会に対してその身ひとつで立ち向かっている(ようにジョーには見えた)戦車男の姿に、ジョーは自身を少なからず重ね合わせていたのではないだろうか。リンが言ったようにカメラ一台でジョーは方々を駆ける。

えてして、カメラの被写体や写真そのものが評価され認知度が高いことは多いが、その写真をとった人自身が多くの人の記憶に名を残すことは滅多にない。
例えばピュリッツァー賞をとった写真は見たことがあっても、そのカメラマンの名前を言えない人は多いように。
ジョー自身もそれはわかっているからこそ、ジャーナリストとして生きる自分の一つの成果のようなものを求めていたのではないか。富や名声ではなく、世界に衝撃を与えたという結果。
それは誰だって持つ当たり前の夢だ。
自身の存在意義や、積み重ねてきたものに対し何か形を残したいという気持ち。仕事や趣味・スポーツ…何かしらで成果を出したい、家庭をもち両親を安心させたい、もしくは愛する存在を守りたい、車や家欲しいものを得たい……形は人の数だけある。

子供はいらない、結婚する気もない。車はお金に縛られるからいらない。
ジョーは世間一般で「幸せ」とされるものを全ていらないという。彼の夢には必要ないものだからだ。でもそれを明言すれば周りからは侘しい男だといわれる。社会的に一種のアウトローともいえる状態。自分の在り方を認められないのは結構生きづらい。(勿論気にする度合いは人それぞれだろうが。)

撮った写真を目の前でほぼすべてボツにするフランクに対して、今年撮った唯一の戦争写真なのに!と言い募るジョーから見るに、おそらくジョーは「世界に衝撃を与えるためには凄惨でショッキングな光景が有効である」として追いかけていたのではないかと思う。
天安門事件も実際多くの人の血が流れ(物語内では言及されていないが、戦車にひかれた人も少なからずいたとされる等、凄惨さはすさまじい)、大きなニュースとなり世界を駆け巡った。
そしてそれは結果的に「人の血が流れればニュースになる」というフランクの言葉がジョーの中で確固たるものになったのではないか。

「人の血が流れればニュースになる」それは入社したてでまだ子供のジョーにわかりやすい指針としてフランクが出したもの。1989年であれば間違いなく真実だったもの。
23年の間に発展したのは科学技術だけではない。メディアリテラシーコンプライアンス、様々な価値観が交わることが可能になったからこそ生まれた線引きもある。

「でも顔はだめだ」と言ったフランクはまさにその線引きをしていた。
顔がだめな理由は簡単だ。人は相手を認識するとき顔を見る。それは写真も同様だ。
顔が見えれば、それは「死体」ではなく「死んだ誰か」になる。「この人はどんな人だったのか」と生前の様子を強烈に意識させる写真はもう「死体を写している」と言うものではない。そこに映るのは明確な「死」だ。
それは確かにショッキングでインパクトは強いかもしれないが、結果的に本来の意図とは異なるただの「残酷な写真」で止まることにになりかねない。
フランクは編集長として新聞社の立場と報道のあり方を天秤にかける立場だ。
「大人」の判断とその基準を持つ必要がある。だからこそ、残酷さだけが先行しかねない写真は載せられない。それがどんなに真実でも、撮った側と同じ意図で読者が写真を見る可能性がそう多くないことをフランクはわかっている。

誤解のないように言っておくと、ジョーは凄惨な現場を好き好んでいるわけではないと思っている。ジョーがショッキングな写真を多く撮ったのは、その現場にいて体感したこと、自らのまなざしがとらえたものについて、より真実に迫ったものを世界に共有したいという真摯な気持ちによるものだろうし、それはジャーナリストの本文だ。
もしかしたら、自分の求める結果を出せずもがく気持ちも少しはあったのかもしれないが、なんにせよジョーが自分の見てきた惨状を少しでも多くの人々に訴えたいと言う気持ちがあってこその結果なのは間違いないだろう。

ジョーが何度もフランクと、もしかしたらそれ以外の相手とだって、自分の撮った写真について掲載可否のやりとりをしたということは想像に難くない。それでも自分がみたものを譲らないジョーは実は結構すごいと思う。だって23年間同じスタンス、自分の理想をおいかけてるってことだから。それは裏を返せば時代の変化についていけない頑固さにもつながるものではあるのだけど、それでもやっぱり理想や夢をおいかける人は魅力的だ。
そして同じ熱と姿勢を維持してそれら追いかけ続けることはとても難しい。
どこかで理想と現実に折り合いをつけた人間からみるジョーは多分とても魅力的だったのだと思う。
そしてジョーは少なくとも2人の人間に影響を与えていた。テスとヂァン・リン。
それはジョーの求める結果ではなかったし、ジョーには見えていなかったけれども。

ジョー・スコフィールドはどこまでも自分のまなざしにまっすぐな人だった。
それ故に自分が歩んだことで何かを壊す可能性にどこまでも無頓着だった。


ジョーの変化

まさに題名の「チャイメリカ」の影響の一つとして、戦車男の取材のストップがフランクより告げられる。新聞社の親会社の新規事業の出資者が中国だからだ。
ジャーナリズムを侵害する行為だと憤るジョー。
スポンサーの意図する記事のみ掲載するフィルタリングは本来あってはならない姿だ、と。
ジョーの言うことは間違っていない。でも実際の現実ではあたりまえのようにあることだ。
今の日本でも例外なく。
言葉でそれはおかしい、間違っているというのは簡単だ。でもそれを実行するのはとても困難だ。ことお金が絡めば特に。
社会で何かしらの責任を背負って働き生きる大抵の人間であれば、その困難さの想像は難くない。フランクは編集長という会社の立場、メルは養育費を払い生活を維持しなければいけない立場でそれぞれ折り合いをつけ飲み込んだ。
対するジョーはここまで共に戦車男を追いかけてきたメルと別れ、ひとり戦車男を追い続ける道を選ぶ。
カメラひとつのジョーは身軽だった。

変化の兆し/メルの気付き

このあたりからジョーの中で変化が起こり始めたように思う。

そして多分メルはその変化に気づいていた。
「危ないのはお前だよ!」
ジョー自身が行おうとしている行為、その捨て身の危うさ、そしてその先にあるものが何かを身をもって知っているが故の警鐘、様々なものがないまぜになってメルの叫びが放たれる。

いっちょまえに記者気取りか、なんてジョーを茶化しながらも共に戦車男を追いかけるメルは楽しそうだった。少し子供みたいに、でもわくわくしているような。
もしかしたら、多分。メルは期待していたのではないか。
戦車男を追いかけるジョーの姿に昔の自分を重ね、そしてその先に昔手にすることができなかった何かがあるのではないかという、期待。
でも現実は違う。どれだけ危ない領域に踏み込み身を危険にさらしても、とらえたスクープがどんなに脚光を浴びたとしても、最後に残るのは被写体であって記者自身ではない。スクープで世界がどれだけ「変わらない」か、嫌と言うほど知っている。

「今の、俺の話だ」
静かに放たれたメルの言葉は、どこか寂しいものだった。

変化の確定と歪み

ジョーの変化が明確になったのは、マリアを脅し違法行為を行わせた瞬間だ。
メルがそれはダメだと言った一線をジョーはついにこえてしまった。
ちょっとしたお願い、ばれなければ問題ない。自分が言わなければ誰にもばれない。マリアに違法行為を行わせているという自覚がジョーにあったようには正直あまり感じられなかった。
戦車男に辿り着くことに対して必要なことだからという気持ちばかりで他が見えていない状態。

他者に犯罪を強要する。それがどれだけ罪深いことか、マリアの秘書デイヴィッドに具体的な数字をもって現実をつきつけられて初めてジョーは実感したのではないか。でもその後すぐにジョーは言うのだ。
「だってこの世にヒロイズムがあることをみんなに知らせなくちゃ」
「それってみんなの利益になると思わない?少なくとも2千万くらいの人のためには。」
テスに自身の行為の正当性を問いかけるジョーは、そのために違法行為を人に行わせたことを言わない。
それを知らないテスはどこか上の空のように相槌を打ち、その言葉を得てジョーは罪の意識を徐々に薄めていく。自分の戦車男を追い求める行為は正当である、必要なことであると。
もし仮にそうであったとしても、ジョーのした行為が許されるものではないことは変わりないのに。
真実を追い求める行為はきっと正しい。でもその過程で人を踏みにじっていることに対し自覚的あるか否かは大きな違いがある。

ジョーはさらに続ける。
「だって僕は誰も傷つけないようにしたいから」
この言葉に怒りがわいたのは私だけなのだろうか。
だって、もう既に人を傷つけている。少なくともマリアとデイヴィッドは犯さなくていい罪を犯すことになった。そしてそれがバレた時二人がどうなるかなんてジョーは考えてもいないのだ。
自分の行動に対する責任から目をそらし、既に人を傷つけている事実から目をそらし、いつまでも理想を追いかけようとする。それはジャーナリズムではなくただの子供のすることだったから。
ジャーナリズムを大義名分として自身の行為を正当化しようとするジョーの姿を、私はどうしても受け入れられなかった。
「誰も傷つけたくない」といって罪を犯すジョーにとって、デイヴィッドの怒りは「じゃあそうして」といったテスとのキスであっという間に消えてしまうような、そんな些末なものだった。

ジョーの大義名分の確定

そんなジョーの中にある戦車男を追う大義名分が明確になったのは「恐怖を呼び起こす写真で衝撃を与えるのではなく、明るい写真で世界に衝撃を与えたい」とテスに告げた瞬間だったのではないかと思う。
北風と太陽の例えでジョーのぼんやりとした概要を端的にまとめるテスの言葉に「そうだ」「まさにそれ」と言いながら言葉を重ね、自分の中のぼんやりとした「何故戦車男を追いかけるのか」という理由を言語化していくジョー。
でも、それは本当にジョーがずっともっていた理由だったのだろうか。
だってそれは最初にメルがフランクに戦車男の特集を載せるために交渉した時の筋書きだ。

カメラマンのジョーと違って記者のメルに求められるのは論述だ。ジョーと違いメルの言語化は鮮やかだった。
(ジョーに対して「いっぱしの記者きどりか!」とからかうメルと応えるジョー(ふたりともかわいかった)からするにジョーは本当にカメラマン一筋で来たことがうかがえるからそう思ったのですが…ジョーとメルのこの差異はジョーの自身のまなざしにのめりこむ理由の一つを示唆しているようで個人的に興味深いです)

23年前のヒーローに今なお興味をもつ人間はどれだけいるだろう。ジョーの戦車男を見つけたいと言う根拠のなさでは足りない。くわえてアメリカの話を求めるフランクを納得させなくてはならない。言語化は自分のまなざしに自覚的でなければ難しく、新聞記事においてそれは最低限のラインだ。メルは「新聞に掲載するため」の見事な視点と筋書きを作り上げる。

今や経済大国となった中国。対して我が国アメリカは不況にあえいでいる。
しかし世紀のヒーローが求めたのは経済発展する中国ではなくこのアメリカ、ニューヨーク!
いつの時代になっても変わらない、自由と権利を保証されたこの国のアイデンティティーこそがアメリカをヒーローのホームグラウンドたらしめる!

固すぎずやわらかすぎず。加えて暗くない。日曜の朝にゆっくり読むにもぴったりだ。
記事に添えられるのは「自由の国アメリカのニューヨークを背に、自由を謳歌し生きている戦車男」の写真。
まだ戦車男がニューヨークに存在すると確定する前から、スクープ写真は決まってしまった。

仮にメルの筋書きと同じものをジョーがもともと追い求めていたのだとしても。
世紀の瞬間があらかじめ決められているのは、それだって求めていたジャーナリズムの道から外れていることにジョーは気づいていただろうか。
ジョーは戦車男が見つかれば明るい写真が撮れると信じて疑わない。
他の可能性は見えていない。

ラストシーン、ジョーが突きつけられたのは彼自身がジャーナリストではなく夢をおいかける人であったという現実ではなかったか。
少なくとも、戦車男に関しては。


ジョーとリン/その共通点と違い

主人公ジョーに並ぶ、もしくはこの人のための物語だったのではないかと思わせるほどの登場人物がヂァン・リンだ。
(観劇後、「み、満島真之介~!!!!」って思いながら劇場を後にしたのは多分私だけじゃないと思う)

3つの共通点

ジョーとリンは国籍・立場・思想と何もかも違い基本的に対のような存在だったが、私は彼らに3つの共通点をみた。

ひとつは、ジョーとリンはどちらも「子供のまま」であること。
それをはっきりと感じたのは、テスと
リウ・リの相手の頭をなでる行為だった。
テスが俯くジョーの顔を上げさせ頭を撫で目元の傷を撫でるその姿は、リウ・リがヂァン・リンを赤ちゃんと言って頭をなでる姿を彷彿とさせた。
ジョーは戦車男と世界に衝撃を与えることに夢中で目の前の人たちを見おとし取り返しのつかないことをくりかえし、リンはリウ・リを心配するあまりハンガーストライキ中の世界から注目されている広場であることを忘れて桃を差し出す。(このジョーとリンのフォーカスの当て方の違いはこの物語を通してすれ違う二人のまなざしにも共通するのが興味深いが、それは後述する。)
そんな二人に対し、テスとリウ・リはどちらも「目の前のことにいっぱいいっぱいで、他の大事なことが見えていない子供なのよ」とでも言うように彼らを優しく撫でるのだ。


もうひとつは、「写真の当事者である」ということ。
天安門事件から、戦車男の写真が撮られてから、23年。
ジョーは41歳。ヂァン・リンも同じくらいの歳だ。
世間一般から見れば歴史的事件の衝撃的な瞬間の写真にすぎなくても、ジョーとリンにとってはそれだけじゃない。彼らはその写真の当事者だ。
ジョーはカメラマン、リンは被写体。
レンズ越しに共有した瞬間、切り取った一瞬が二人のその後の人生を変えた。
ジョーはジャーナリストとしての一瞬の脚光とその後のキャリアを。
リンは自分自身に対する世間の認識のギャップに対する苦しみと怯えを。
一種の呪いのように、戦車男の写真はジョーとリンの生き方に絡みつき、二人の時間はあの切り取られた一瞬から止まってしまっていたように見える。


最後の共通点は「ふたりとも「ヒーロ―」になりたかった」ということ。
先述の通り、ジョーは戦車男に憧れ、自分のまなざしでもって世界に衝撃を与えたいと思い行動していた。
ではリンはどうだったか。

「あなたの写真のせいで私もとんだ重要人物だ。怖かった。みんなあの写真を見る、何かが見えてくる。」
「彼は私じゃない。ただちょっと似てただけ。私は彼のようになりたかった。」

リンはただ袋に愛する人達の血染めの形見を詰めて歩くしかできなかっただけだ。
ただそれだけ。
でも他者のまなざしは違った。
一枚の写真が全てを変えた。
リンにとっては喪失による呆然とした瞬間でも、ジョーは、写真を見た人たちはそう思わなかった。自由の権利を持つ国の大勢の人々が、無名のヒーローとして彼を称える。
それはリン自身がたくさんの人達と共に目指していた、政府に立ち向かい自由を得ようとするヒーローの姿だ。

リンは誰よりも知っている。
その無名のヒーローがリンであることを。
そしてその写真に映るのが、大衆の期待するようなヒロイズムを持ったヒーローではないことを。

自身の認識と他者のまなざしの落差はあまりにも大きすぎた。
それを埋めるように、理想に近づきたいとでも言うように。ジョーに中国の現状を送るリン。
中国当局の取り締まりの厳しさを目の前でみたからこそ、自分が戦車男であるということを人に告げるのがどれだけ恐ろしいことかリンはわかっていただろうし、もしバレた時のことを考えたら夜も眠れなかったのではないか。何よりワン・ポンフェイに顔をしっかり見られている。自分と同じ大学の知り合いだ。わからないわけがない。

仮に彼が言わなかったとしてもあれだけ世界中にばらまかれた写真だ。万が一戦車男がリンだという人が現れたら。自分はもちろん家族だってどうなるかわからない。外に出るのだって恐ろしくもなる。
目の前で戦車男について語るジョーに自分がそうだと言い出せなかった理由は、認識の落差と現実の恐ろしさの2点だろう。
かつての仲間たちとの意思を継ぎ自由を求めたいという理想と、目の前に横たわる現実に板挟みになりながら折り合いをつけれず苦しむリン。「ヒーロー」になるのを諦めればもっときっと生きやすかったはずなのだ。

「でもあの後お前は引きこもった、赤ちゃんだったから。俺は働いた、大人だったから。」
兄ヂァン・ウェイは現実的だった。中国政府の現状を受け入れ飲み込み、それを踏まえた上で生きていく。働きその給料の大半を息子にかける。ハーバードにいかせるのは見識を広げよりよい就職をしてお金を稼ぐための投資だ。
兄の姿を見ているからこそ、リンだってわかっていたはずなのだ。賢い選択はなにかということは。


対局の位置/異なる視点

さて、上記共通点をのぞけば、ジョーとリンはむしろ対局の位置にいると言っていい。
前述のテスとリウ・リに子供と扱われたきっかけに始まり、天安門事件後は同じような衝撃を求めてジャーナリストとして世界中にカメラをもって飛び回るジョーに対し、リンは世間からの視線に怯え弁護士の夢をやめぼろアパートに留まり子供たちに英語を教えて過ごす。

物語冒頭、久方ぶりの再開で交わされる会話は特にジョーとリンの立場の違いが出ていたと思う。
工場の取材後、ジョーはリンに工場の環境のひどさや賃金の安さ、生活レベルの低さについてごちる。
対するリンは兄ヂァン・ウェイも最初はそうだったけど今は月に1000ドル稼ぎその息子はハーバードで学んでいると返す。しかしアメリカ人の感覚からすればそれだって安いし、子供に大金をつぎ込みけしてらくな生活ではないのは明白だ。
その現状に、別にジョーの責任でもないのに「すごく責任を感じちゃって」とさらっとジョーは言うのだ。
観劇中私は「驕りすごいな!?」と結構びっくりしすぎてもう逆にファーーー⁉って笑いそうになったんですけどこれ笑ってよかったんですかね…。周りがそんな気配なかったので我慢したんですが…。
しかしヂァンリンはなんでもないように言葉を返す。
そう、あなたたちが悪い。そして今の中国はメイフラワー号と一緒だ、と。

メイフラワー号はアメリカの開拓の祖とされる象徴的な存在だ。
新天地を求めたイギリスはじめヨーロッパ各国は船に乗り新大陸アメリカへと向かう。彼らは新天地への希望を胸にアメリカの土地を開拓していき、自然や原住民との争いの苦難を乗り越え現在のアメリカの礎を作った。

…というのは勿論白人の視点で、実際にアメリカ大陸の歴史はコロンブス発見前からあるし、船に乗ってやってきた彼らはネイティブアメリカンとよばれる原住民達と争い、殺し、奴隷として扱い、彼らの土地を奪ってアメリカの土地は開拓されていく。
アメリカの歴史が植民地化以前のものはほとんどないのは白人たちによって作られたものだからと言う見方もある。メイフラワー号はアメリカ開拓の祖であり、植民地支配の象徴でもあるのだが、勿論リンとジョーの会話におけるメイフラワー号は前者の白人の視点だ。

とにかく、リンはジョーが無自覚に貶めた中国の現状は、ジョーが誇りに思うアメリカの最初の姿と同じで中国もアメリカも何も変わらないと暗に返しているわけだ。
(ところでヂァン・リンのジョーに対する返し方はどこか皮肉めいててイギリス人ぽいなあと思ったのですがきのせいでしょうか…自分の出会った中国人達は良くも悪くもストレートに言葉を返してくることが多かったので)
リンはジョーの無自覚の傲りを指摘しているがそれがジョーに届いたかどうかは正直怪しい。
何故なら数刻後、同じことをジョーは繰り返すからだ。

場所をヂァン・リンのアパートに移しビールを交わしながら、ジョーはリンに「ニューヨークにこい」と誘いをかける。
断るリンに対しジョーは食い下がる。はっきりとは言葉にしないが「中国のどこがいいのか?なぜそんなに固執するのか?アメリカは自由なのに」と。
それは真実ジョーの善意に他ならない。しかしその根底に傲慢さがあることをジョーは自覚していただろうか。彼はアメリカが誰から見ても素晴らしい国だと疑わない。多くのアメリカ国民がそうであったように。
中国がヂァン・リンの祖国であることを知りながら。意思をもっているからこそ天安門事件でデモに参加していたことを知りながら、ジョーはそこに無頓着だった。
ジョーはどこまでもアメリカ人であったし、リンはどこまでも中国人だった。

このように多くの立場やまなざしが違う二人だが、何より戦車男の写真に対する見方が2人は全く違う。
そしてリンはリンとジョーの中にある戦車男のとらえ方が全く異なるものであることをを理解していた。戦車男はリンだから。
物語冒頭、戦車男がリンと知らないジョーはリンの前で戦車男がいかにヒーローであるかをといている。そしてリンはマンデラという実際に運動を起こし活動をしている人物をあげ、ジョー自身もカメラひとつしかないといって、戦車男がジョーの思うような人物ではないと示唆している。もちろんジョーの耳には届いていなかったが。

そして同じように「ヒーロー」に対する見方も違う。
ジョーは社会に対し、ひとりのまなざしでもって対峙しようとしていた。
ヒーローはひとりで戦うものだから。
しかしリン違った。
その違いを昭然たらしめたのは、ジョーが天安門事件のヒーローは戦車男で戦車男がすべてのような物言いをした時だ。
「ひとりの事件にしてしまうのか!?」
リンは学生運動の仲間たちと、妻リウ・リと一緒に社会を動かしたかった。自分たちのために。そして生まれてくる子供のために。リンにとってヒーローは仲間たちと共にあるからこそ生まれるもので、ひとりで戦うものではなかった。ヒーローの背後には共に戦う大勢がいる。

先程、共通点としてジョーとリンは写真の当事者であることをあげた。
でもそれはあくまで客観的な事実なだけであって、それぞれ写真に思い入れはあるが、その相手に対しての認識は全く違う。ジョーは戦車男がリンであることを知らない状態ではあるが、一人のカメラマンとして、「1989年の中国は希望や未来が溢れていた。自分はそれをこの目で見た」と主張する。自分も天安門事件の関係者だ、と。
対してリンははっきりと線引きをしている。
「うん、あなたはホテルにいて写真をとっていた。カメラで顔を隠して、飛行機の切符をポケットにいれて。私は広場にいた。」
リンにとってジョーは「事件の体験者ではなく、安全な場所でただカメラをとった逃げることができる外国の人間」であった。
遠くから見ただけ、聞いただけでなのに、同じ体験者であるとわかったように語られることは、体験者からすれば時に耐えがたいものがある。
ジョーのまなざしにはどこか傲慢さが潜む。

勿論ジョーだって全くの危険をおかさずにいたわけではない。
時報道規制がしかれた中国国内で写真を撮りその様子を国外に持ち出すことがどれだけ困難だったか、リンが知る由はない。
身の安全を第一にとるべき中でギリギリまでシャッターを切り、危険をおかして国外に持ち出したジョーは間違いなくジャーナリストだった。
でもそれは撮る側の話であり、被写体と同じ目線で同じ体験をしたということにはけしてならない。その目で見たから話を聞いたからと被写体の痛みや体験をさもすべて理解したように話すのはもはやただの知ったかぶりや傲慢だ。
ジョーが見たものは勿論間違ってはいない。でも遠くから見た景色をすべてとしてしまう傲慢さを持っていた。

リンにとっての天安門事件の体験者は、あの日あの広場にいて国の未来のために運動に参加し、惨劇に身をさらし命を懸けた人達だ。
ジョーにとっての事件の体験者は、世界に事件を発信しようとした広場にいなかった人々も含まれている。
どちらの認識も誤っているわけではない。でも同じものではないことを果たして二人は理解していただろうか。自分の隣にいるリウ・リにフォーカスをあてるリンに対し、ジョーは常に社会全体にフォーカスをあてて「戦車男」というヒーローを見ているという、その違い。どちらが正しいとか、間違いではなく、それらの「まなざしが存在している」ということに対する認識があっただろうか。

ジョーが気付くべきだったのは、社会にフォーカスをあてて物事を見ているからといって、それで自分自身も社会と同様の存在になるわけではなないこと、そのまなざしによって個人の思いを知らず踏み潰してしまう可能性があることだった。でもジョーは自身のまなざしに驚くほどに鈍感だった。

同じ写真を見て、同じ写真でつながっているのにジョーとリンのまなざしは全くかみあわない。


グアンシーその形

メルとの離別が第二回討論会の日で2012年10月16日。
そこから1月経たない2012年11月07日(前日のジョーとテスの会話(オハイオオバマの勝利というところ)から)の同じ夜にジョーはテスとフランクの二人から決別を宣言される。
加えておいかけていたワン・ポンフェイは求めていた戦車男ではなかった。

傷心のジョーがすがった先はヂァン・リンだった。

なんかもうこの時点で「空いた心の穴を埋めるための代替みたいに他の人間にすがるのやめーや!」と個人的には思ったりするんですが、このあと続く会話が…もう……。
ジョー…おまえってやつは……赤ちゃんだよ…。

電話に出たリンは甥のベニーとの食事会にジョーがこなかったことを問う。約束したのに。兄貴もがっかりしていた。当然の反応だ。
しかしジョーの応えは謝罪ではなかった。
「俺もがっかりしてる。」それは食事に行けなかったことではない。探していたワンポンフェイが戦車男ではなかったことに対する落胆だ。頼まれた食事ひとつはたせていないのにジョーは謝りもしない。後で落ち着いてから謝ってはいるが、それでも最初に謝罪ではなく自分の落胆を伝えるために電話をする時点で自分のことしか見えていないのは明白だ。

「私だってどうでもいい人間ってわけじゃない。戦車の前には飛び出さなかったけど。」
そう言ったテスの舌の根も乾かぬうちに同じことを繰り返していることにジョーは気づかない。

リンが、戦車男を助けたのは政府じゃなくワン・ポンフェイだ、彼だってヒーロだったんだと言う。軍に属しリンの顔を知りながらそれを報告しなかった、同じ大学というグアンシーを持ったリンにとってのヒーロー。戦車男の命を真実救った人間。でもジョーにそれは響かない。
何故ならワン・ポンフェイはジョーのまなざしにおいてヒーローではないから。政府側の人間だから。大きな組織に属している一人だから。
ここでリンはジョーと自分のフォーカスが全く違っていることに気づく。
ジョーが興味があるのは中国の体制でも天安門事件でもなく、本当に戦車男ただ一人、ジョーの中にあるヒロイズムのみであったのだということに。
対してジョーはリンとのフォーカスの違いには気づかない…というよりはおそらく興味がないのだ。
ジョーはどこまでも夢を追い続ける。

「もっとも幸せな人間は自分自身に嘘をつくのが非常にうまい人だ」
公安警察に冷蔵庫を買っていったドン。中国国内で折り合いをつけて生きている人達だけじゃなく、自由がある国でだってそんな人間はいる。嘘ではなく、夢という言葉に置き換えて。

この時点で個人的にはジョーに対して「もうやめてくれ…」と思いながら観劇していたのですが、ジョーはすごい。ちゃんととどめをさしてくる。
ジョーはリンがどんな状態か知らない。だって電話を折り返さないから。
ミン・シャオリとスモッグの告発文で尋問を受け心身ともにぼろぼろの状態のリン。
そんなリンに「あれもごめん。老人とスモッグの話」とついでのようにあやまるジョー。

中国の規制の事実は知っていても、ジョーにとってはやはり「「知っているだけ」の遠い国の話」なのだ。
リンの悲痛な叫びはジョーには届いていなかった。
この記事をなかったことと認めなかったのはリン自身だ。それによって尋問と言う代償を選んだのもリン自身。同じように記事にするかを決めるのもジョーだ。その分別があるからこそリンはその事を責めなかった。
しかし、そんな自分の訴えた強い気持ちが相手にとっては十把一絡げの謝罪のひとつですむものであるとわかった時、意識の落差を突きつけられた時、何を言えばいいのだろう。
怒り・諦観・落胆・虚無感…リンの心には何があったのだろう。

そんなリンをよそに、重くなった空気を振り払うかのように、再度ニューヨークに来ることをリンに提案するジョー。しかしリンの現状からするにビザの取得は困難だ。中国国籍の場合は出稼ぎの不法滞在になるパターンが多いため、観光目的であることの証明や、経済状況・家庭や仕事の状況に問題がないことを示す必要があるからだ。労働許可証なんてもちろんない。
だから無理だというリンにジョーは「俺がなんとかする」という。
「本当に?」「うん、前にも言っただろ。」
ここで止めてくれればどれだけよかったか。
しかしジョーはさらに続ける。

「それか——そうだな、俺と結婚するか」
あまりにも酷すぎて、観劇中本当に涙が出そうになった。
頭ではわかっているのだ。ジョーがリンの現状を知らないことを。
それでもあんまりだと思った。

実際、この電話の時点でニューヨークは同性婚が認められていて、パートナーとなればビザの発行ば容易くなる。(アメリカの永住権については2013年6月26日以降のDOMA違憲判決以降なので作中の時間的に微妙なところかなあとは思うので置いときます)
実際にアメリカのビザや永住権・市民権のために偽装結婚がある程に、結婚という形の繋がりは強い。
少なくともビザが出ればリンには語学教師という形でグリーンカードを取得することも実現不可能ということにはならない。
当局から監視され心身ともにボロボロ、今後の未来すら見えず為す術のないリンからすれば、ジョーの冗談は馬鹿げていながら、実現可能な唯一と言っていいほどの希望となりうる話だった。

そして冗談とわかっているからこそ、あまりにも辛かった。

本当はその言葉は、多分テスが欲しかった言葉ではないか。
名言はされなかったが恋人のような関係だったテスとジョー。
「仕事をやめればいい」というジョーに「じゃあ何をしろっていうの?」というテス。ジョーは悪気なく「赤十字とか」と答え、テスと軽い口論になった。

多分、おそらくにはなるが、ジョーは本当にリンと結婚(正確には結婚によって発生する権利の譲渡)をしていいと思ったのではないか。少なくとも電話していたその瞬間は。
だってジョーからしてみれば「結婚」は使う予定のない権利だ。
それは物語の冒頭から(ジョーにしては珍しく)明言していたし、それはテスに出会っても変わらなかった。
リンには恩義があるし、友人としても好きだし信頼もある。
そして何より人助けにもなる。
それはある種、権利をもて余した傲慢とも言えるが、そうだったとしてもそれの何が悪いのか。
ジョーはただ自分の持つものを助けたいと思った人に使えるなら使いたいと思っただけだ。
あの日テスの手を握った瞬間のように(その後の築いた関係は違うが)、ジョーは優しかった。間違いなく。
でも瞬間の優しさはあっても、そのあとにある残酷さには気づいていなかった。

そもそも、食事の約束ひとつ守れない男の結婚の約束なんてどうやって信じればいいのか。
結婚とそれに付随する権利を冗談で安売りができることがどれだけ自由なことなのか、その重みに興味のないジョーの言葉は残酷だ。

唯一の救いは「考えておく」と返したリンの声にどこか柔らかいものがあったように聞こえたことだ。
結婚は冗談としても、少なくとも、本当にビザをなんとかしてくれるかもとは思えたからかもしれない。
グァンシーを信じて。信じたかったのかもしれない。

生まれも育ちも思想もなにもかも違うジョーとリン。
お互いに友情を感じていたのは間違いない。でも二人の間に流れる違いの不理解は、その不理解が見えないほどに大きすぎた。
文化や政治、情報統制、連絡ひとつに対するその重さ。
そしてそれは「グアンシー」に対する考えも。

ジョーにグアンシーはあったのだろうか。リンの求めにジョーが応じる瞬間は劇中ではついぞ見ることがなかった。


リンの行動の謎/リンの背負うもの

ジョーの結婚の申し込みに考えておくと返した後、リンは突然驚きの行動に出る。
公園でメガホンをもって叫ぶのだ。
中国政府に対する非難。国民を第一に考える政府、公害嘆息に苦しむ国民から目を背けない政府…我々が求める政府はそんな政府だと。
ジョーに送ったメールの時みたいに言い逃れはできない。大勢の前で自身の身をさらして中国政府の言う「社会不安を煽る行為」を行うリン。

個人的にここは急展開…というか何故ここに至ったのかがしばらく理解できなかった。
ヤケになったようには見えない。じゃあジョーの言葉を真に受けて、その前に最後の主張に出たのか?
どれもしっくりこなくて最初からのリンの言動を思い返していた。

ジョーとの接近

リンとジョーが出会った経緯は劇中描かれていないが、最初からジョーは間違いなくリンに戦車男の写真の話をしていただろう。そしてリンはそれを自分だとは言わなかった。
アルマーニのスーツを買うことが若かりしヂァン・リンにとって非常に大きな出費なのは間違いない。
リンがジョーとグアンシーを築こうとした理由はどこにあったのだろう。

これは推測にはなってしまうが、天安門事件において外国メディアに報道管制がしかれる中、生中継を行い続けたのはアメリカCNNだ。
リンにとってジョーがアメリカの新聞社で働くカメラマンであることはかなり大きなウェイトを占めたのではないか。
その目的は中国の現状を報道してもらうこと。縛りの多い国内からではなく、国外からアプローチをを行い中国を変えたい…という狙いがあったのではないか。
幸いジョーは戦車男についてよく話すし、戦車男の写真だって撮っている。中国国内でなかったことにされ始めているあの事件をはじめ、中国国内の政治問題を世界に引きずりだしてくれるかもしれない…そういう狙い。

ジョーとリンの会話からするに、ジョーが何度も戦車男がヒーローだったという話をリンにしているのは間違いないだろう。
リンが戦車男とは知らず、勝手に英雄視し、憧れをもってまっすぐに戦車男を語るジョー。自分が引きこもるきっかけの写真を作った男。本来自分がなりたかった姿を作り上げた男。
ジョーに対するリンの気持ちは複雑なものであったのは間違いない。

何より23年の付き合いだ。
あった回数が少なくとも互いに多少の情はわくだろうし、少なくともジョーとリンの間に友情が築かれていったのは間違いないと思うのだ。
ただ、ジョーのそれがリンのグアンシーと言うものであったかはわからない。

ミン・シャオリ

事件から月日は流れ、対外的には発展し経済大国と称されるようになった中国。
アメリカのニュースサイトを定期講読し、わざわざアメリカ大使館のサイトをチェックするリンが、実際に中国国内で流される情報と実情の落差に苦しむことがなかったと言うのは考え難い。
下手にネットに配信するだけでも検閲にひっかかり捕まる可能性があるため、自分の中の焦燥と苦しみを吐き出すことすらできない。

実際は呆然自失の状態であったとはいえ、ジョーの口から語られる戦車男はまるで世界中の英雄のようだ。
写真になった瞬間のリンの心情がどうであれ、戦車男の写真が世界を動かし中国政府に対し動きを見せるきっかけのひとつになった事実は多少なりともリンの心を支えていたと思われる。(支えにしたからこそのラストシーンと言う見方もできるだろうが)
しかし、中国国内では事件そのものがまるでなかったように扱われ、当時を知る人々も口を閉ざす状態だ。
むしろ、もしリンが戦車男とバレてしまったらそれこそ命が危うい。

そんな中、リンが隣人のミン・シャオリと長きにわたり交流があったのはただ隣人だったからと言うだけではないだろう。
リンは、ミン・シャオリに自分を重ねてみてしまったのではないだろうか。
属する立場は違えど。ポスターと写真という違いはあれど。
かたや国の功労者、かたや一世を風靡した世界一有名な反逆者。
切り取られた瞬間のミン・シャオリとリンは多くの人が認め、褒め称えている。
でもそこに描かれ映る人間が、自分達だと気づく人はない。
確かにただポスターや写真になっただけかもしれない。でも印刷された自分は認められほめられるのに、現実にいる自分自身にはなにも起こらないと言う落差は、認められていることを知っているが故により深く大きいものではなかったろうか。

印刷された自分が誉められたって、生活が楽になるわけでも、夢見た世界が訪れるわけでもない。
続くのは変わらず苦しい日々だ。
貧乏、病気、不眠、抑圧。日々の苦しさは、少しずつ思考の余裕を奪っていく。
自分が生きた証が忘れ去られていくのを見るのは果たしてどんな気持ちだろう。
功績を認め褒め称えてほしいわけではないのだ。
ただ、自分がそこにいたことを知っていてほしいと思うだけだ。
悪いことをしているわけではない。むしろやったのはいいことだ。
なのに何故こんなにも苦しい日々が続くのか。
どんなに待ってもミン・シャオリに中国政府からの助けは訪れないし、リンに世界からの助けは訪れない。
だって彼らは褒め称えはしても、それが自分達だとは知らないんだから。
印刷された自分達を利用した人達はいい生活をしているのに。おかしいじゃないか。
苦しんで死ぬのを待つしかないのか?ただ普通に生きたいだけなのに。
それくらいは望んだっていいじゃないか。
だってそうだろう。
そうじゃないと。

「惨めだ、惨めすぎる」

引き絞るようにジヂァン・ウェイに告げるリンの心はもう限界だった。

リンの幸せの崩壊

ミン・シャオリの死後のリンの暴走は前述の通り自分を重ねたのもあるだろうが、個人的にリンのタガが外れた理由は他にもあると思っている。

冒頭のジョーとの再会時のリンはどちらかと言うと発展する中国に肯定的だ(多少の強がりもあったかもしれないが)。
かつては反発し戦ったが、今の発展があるなら、明るく前を向こう。
リンは幸せとまではいかないにしても現状を受け入れていた。
ジョーが認めなくとも、あの日広場にいた10万人の人々がの行動が国の歴史からなかったことにされようとも、リンも彼らも生きてその道を選んだのだ。

しかし、政府の広告塔であったミン・シャオリがその政府に見向きもされず弱り倒れていく最期を見たとき、リンの中で作り上げてきたそのささやかな幸せが崩れたのではないか。

だってミン・シャオリは自分と違って政府に貢献した人間だ。
なのにその彼女が切り捨てられるなら、自分が選んだこの道はいったい何なんだ。
生活に公害、様々なものにがんじがらめで飲み込むしかない理不尽さ。
かつての自分自身の行動、妻や子供、仲間達すらなかったことにして生きる苦しさ。

何も残らない。惨めな気持ちだけだ。
目をそらしていた気持ちが堰を切って溢れだす。
自分自身に嘘がつけなくなっていく。

結果ミン・シャオリとスモッグの告発文をジョーに送り検閲で見つかったリンは公安警察の手によって拷問をうけることになる。

当初、公安警察の前に連れられたリンは、我にかえったように謝罪と反省を繰り返して、かわいそうなほどに怯えていた。
公安警察に従い、自らの文章が過ちと認めるサインをしようとしていたのだ。そうすればまだ軽いおとがめですんだかもしれない。
しかしリウ・リの幻影が現れた瞬間、リンは何かに取りつかれたように意思をもってサインを拒否した。
「もっとも幸せな人間とは自分自身に嘘をつくのが非常に上手い人だそうだ」
傍から見てどれだけ不幸せに見えても、本人がそれが幸せだと信じていればそれは幸せなのだというリン。訝しがる公安警察は問う。「その話に要点はあるのか?」
「ええ、あなたは幸せな人だなって」
中国政府のあんなにわかりやすい嘘を信じ生きるあなたは愚かで幸せだと告げるリン。幸せだといいながら痛烈に皮肉るリンが公安警察に、ひいては中国政府に対して反抗的なのは明白だ。
「靴を脱げ」
家に帰る必要がなくなった合図だった。


遠いアメリカで恋人のように楽し気な時間を過ごすジョーとテス。
抱きあう彼らの姿から舞台は回転し、一瞬現れたリンはサインを拒否する前の姿からすっかり変わっていた。
椅子にかろうじて座る形をとるリンの意識の有無はわからない。体中に傷を負い、白いシャツは血のしみだらけでボロボロ。両足首には真っ赤な血とも肉とも判別できぬ輪ができていた。
ひとりの観客としてただただ、胸が苦しかった。知らないことは幸せで、そしてとても苦しかった。
翻って今この瞬間自分も同じことをしているのかもしれないと思うと、怖かった。


ヂァン・ウェイ

場面は変わり、リンは自宅に戻っていた。体はボロボロで痛みに苦しむリンによりそうのは兄ヂァン・ウェイだった。
苦しむリンを見ても痛みを変わってやれない辛さ・ただただリンを心配する気持ちがにじむヂァン・ウェイの声は、聞いているこっちが辛くなるものだった。

「お前はちゃんと自分の意見を言った!偉かった!彼女も生きていたら誇りに思うだろう。けどもう誰にも何にも証明しなくたっていいから!!」

ひきつるように叫ぶヂァン・ウェイ。
過去として割り切れ、かしこく生きろと言うのは簡単だ。でもそれができたら23年も苦しまない。
リンがずっと苦しんできたのを知っている。だから彼も兄としてその生き方を理解は難しくとも家族としてずっと見てきた。でもこんなにボロボロになる必要はない、ならないでくれ。
ヂァン・ウェイにとって大事なのは過去にあった事件ではなく、目の前の弟だ。
でもその弟は過去にこんなにも縛られている。

兄の悲痛な叫びは、おそらくリンに届いた。
私がそう思ったのは、冷蔵庫を捨てても現れたリウ・リの幻想がこの後出てくることはないからだ。(回想には出てくるが)

赤く染まったワンピース姿のリウ・リはリンの罪悪感の形だったのではないかと思うのだ。
生き延びてしまったこと。
口を閉ざし、目を閉ざし、耳をふさいだこと。
あの日の事件を消し去ろうとする自分の国を受け入れること。

それは、生きていくなら当たり前のことだ。
実際、私が大学で出会った中国人留学生のほとんどが天安門事件のことを日本にきて初めて知ったと言うことだった。多少の年齢のばらつきはあれど、生まれてすぐの事件について彼らはほとんど知らない。
ゼミで、じゃあ知った今それに対してどう思うか?となった時、彼らは戸惑ったり毅然としたり、受け取り方は様々であったが、最終的な結論としては「知ったからといってどうすればいいのか?生活が変わるわけではない。何より政府がかわるわけではない。それを知らず生まれ育ち生きてきたことは悪いことなのか?今かかえている問題のほうが正直興味がある」という感じだった。

私は何も言えなかった。
だってその問題は私にとってやっぱり「よその国の話」だったから。実感を伴うものでなかったから。外野としてならいくらでもいえるだろうがそれは無責任で筋違いだとわかったから。
どれだけ社会に関心を持ったとしても行動に移すのは大変だ。
大勢に対して異を唱えるのは勇気が必要で、実行するにはお金や権力、知識…何かしらの労力が多く必要だ。勿論自分自身の生活も犠牲になる。
仮にもし出来たとして、それが大衆に届くかはわからない。誰だって自分の目の前の生活が安定して初めて考える余裕ができるものだから。

ただそれがあたりまえのことであっても、リンは自分で許せなかった。
あの写真もリンの時間を止める一つの楔であったろうし、血に染まったワンピースはリンの救えなかったものたちのそのものだ。

公安警察への否定は戦車男の写真を撮られた時とは異なり、リン自身の明確な意思でもって意見を貫いた。
その自分の行動を認める兄の言葉に、ようやく自分を受け入れることができたのではないか。
でも、だからといって、それでリンの中であの日の事件が終わったわけではなかった。

だってリウ・リは最期、家に帰りたがっていた。
「うちに帰りたい」「どうしてみんな走っているの」
暗闇の中響き渡る轟音と銃声、もう何が何の音かわからない。恐怖と混乱ばかりだ。

むせび泣く理由は体の痛みか、喪失感か。
今回は自分の意思を通した。でも何も変わらないし何も戻ってこない。残ってるのは痛みだけだ。
苦しむ弟を前に何もできず、ただ「もう終わった、黙って寝てろ」と言うしかできない兄の言葉は悲痛だ。
過去を忘れ前を向き今現在を生きる。みんなそうやってきた。ヂァン・ウェイ自身だって。
なのにどうして弟はできないのか。どうして自分はその力になれないのか。
弟にただ幸せに生きてほしいと思っているだけなのに、なぜそれがこんなにも難しいのか。

リンだって兄が真実自分の幸せを願っていると十分わかっているのだ。
それなのに応えられない。自分が兄の幸せを邪魔してしまうかもしれない。
でもやっぱりリンはあの日を忘れることはできないし、なかったことにして生きていく選択をするには背負ってしまったものが多すぎた。妻を失い子を失い、いつの間にか世界では無名の英雄で、でも誰もそれが自分だなんて知らなくて。自分ではない自分が勝手に流布され、自分が自分でなくなっていく。
何をすればいいかなんてわからない。それでも終わっていないから、苦しく、叫ぶ。
「黙って寝ているなんて!そんなの嫌だ!!!」

ヂァン・ウェイとヂァン・リンは兄弟というとてもあたたかく強い絆でもって結ばれていた。
それ故にどちらも苦しむ。大事だからこそお互いにどうにかしたいと思っているのに、その苦しみは共有ができない。
だって見ている先が違うから。
それでもお互いを大事に思っているのは本当だ。
きつく抱きしめあうリンとヂァン・ウェイの姿は、互いのまなざしの違いとそれがどうにもできないのをわかった上で、それでも少しでも隙間を埋めたいという最後の形に見えた。
もうどうしようもなくて、抱きしめあうしかできない。
切実で、祈りすがる姿にも見えた。

リンの望み/ジョーへの許容

やがてジョーからの連絡で、ジョーと自分が見ていたものが違うと気づくリン。
ジョーがスモッグの件を記事にしなかったのは内容が些末だからではない。天安門から今日まで続くその根本にそもそも興味がなかった。
本当に「戦車男」しか興味がなかった。
中国国外から中国を動かすカードなんて最初からなかったのだ。

気付いて、自分が当初出会った時のようなアクションをジョーに期待できないとわかったとき、リンの中に残ったジョーに対するものはグアンシーだけだったのではないか。


そして公園で反政府を叫ぶリン。

自分の意思を誰かに証明する必要はもうない。黙って知らないふりをして「大人になって」働いて。普通に生活をする選択もあったはずなのだ。
誰もが自分の目の前の生活で手一杯で、世界や社会、大きな体制に何かしらの思いを届けたり変えたりすることに無関心にならざる得ないのは、リン自身が身をもってわかっていることだった。
でもリンの中で10万人いたあの事件は終わっていないから。
リウ・リと子供、他にもたくさん。リンは後ろにたくさんの人を背負ってしまった。
戦車男といわれていつの間にか事件の象徴みたいになってしまった。
それがリンだと知っている人がいなくても、リン自信が知っていたから。
知ることは見えるものが広がることだ。
リンのまなざしを理解できる人間がこの世にどれだけいるだろう。
本当は何も負う必要なんてないし、誰かに強要されたわけでもない。
でも「黙って寝ている」選択がリンにはできなかった。

「戦車男」ならジョーも、世界もこちらを向くかもしれない。
今もあの事件から動けずにいるのが自分だけではないことを、信じたかったのかもしれない。
変わらず続く苦しさや、大事なものがもう戻ってこない事実がもう限界だったのかもしれない。
ただ単に、苦しみをぶつける先がもうそれしかなかったのかもしれない。
中国にはいられなくなるかもしれないが、ジョーは何とかするといった。
友達としてジョーの言葉に懸けたのかもしれない。
今度こそ約束を果たしてくれると信じたのかもしれない。
あるいは全部。
もしだめでも、あの日の記憶全てをこれまで音声に込めてきた。


案の定、監視リストに入ったリン。
戻った彼の家は監視カメラだらけだった。
家庭を持ち大事なものが他にもいる、金持ちとのつながりがあるわけでもない。ヂァン・ウェイがリンを助けるために言えるのは「ジョーに連絡しろ」それだけだった。
リンがどう思っていようと、ヂァン・ウェイからみるジョーはろくでもない人間だ。
指先を少し動かせば出来る電話、連絡の約束ひとつ未だに果たさないアメリカ人。
自らを追い込むように行動するリンを見るしかできず、頼るツテがジョーしかいない状態はどれだけ歯がゆかったろう。

助けを求める電話がつながることはなかった。


連絡の夜からゆうに1月は経っていた。その間にリンが不安や恐怖に駆られない日がなかったとは考えにくい。
ヂァン・ウェイの訪米はジョーからの連絡がないことにしびれをきらしたこともあるのではないか。
約束も守らない、本当に記事にしてくれるかもわからないアメリカ人。そんな人間に頼ることしかできず、弟の大事なものを託すしかできなかったヂァン・ウェイの気持ちはどれだけやりきれず悔しいものだっただろう。


「あなたの写真のせいで私もとんだ重要人物だ」
「怖かった」
「彼は私じゃない。ただちょっと似てただけ。わたしは彼のようになりたかった。」
穏やかに告げるリンの声がとても印象的だった。
怒りや諦めというよりは、何かを受け入れたような穏やかな声が、ジョーに対するリンの気持ちを物語っているように感じた。
ジョーに別れではなく「また」と告げたのはリンの優しさか、はたまた希望なのかはわからない。後者であればいいと思った。

リンはアメリカ人になりたいわけではなかった。
中国がアメリカになってほしいわけでもない。
中国人として、自分の国で自由な権利を持って、自分の国で生きていたかっただけなのだ。



リンの託したもの/ジョーの気付き

「戦車男の袋の中身はなんだったのか?」
劇中では何度かそれを気にする声が出る。
メルはそれが記事を読む人たちが興味や親近感を持つためのディティールだといい、テスは買いものの帰りがけに歴史になるなんて、という。
2人とも戦車男がヒーローである前にどういう人であるか、ということを知りたがる。

対するジョーは一貫しての袋の中身はどうだっていいという。
だって袋の中身がどうであれ、タンクマンが戦車を止めたヒーローであることにかわりはないのだから。
彼が朝食に何を食べどうやって生きているかなんてどうでもいいのだ。
どんな人間か、ではない。ヒーローの姿を捉えたいだけなのだ。
ではジョーは何を聞くつもりだったのか。その明言はない。

そんなジョーがラストシーンでリンに聞くことはメルの言葉そのものだった。
今何時?朝ご飯は何食べてる?どうやって食べるのか?甘い?
電話の先にいるのは、戦車男である前に一人の友人だった。

リンが託した全てを聞いたジョーは戦車男の記事を書くだろうか。
アイポッドはリンのグアンシーの形そのものだ。


ヒーローを求めるアメリカ/ジョーの背景

スーパーマンに始まり近年のマーベルシリーズまで、アメリカはとかくヒーローが溢れている。
日本にも特撮ヒーローはもちろんいるのだが、アメリカの「ヒーロー」に対して持つ気持ちはどこか一線を画している。アイデンティティに近いといっていいと思う。

チャイメリカの舞台、2012年のひとつ前の大統選挙、2008年にオバマ政権が確定した理由のひとつとしてあげられるのはアメリカの「ヒーローの不在」だ。
(個人的にトランプ政権誕生も方向性は違うが同じ理由だと思っている。わかりやすい言葉と明確なビジョンは生活につかれた人間にとても効くので。その結果と経緯の如何は置くが。)

2008年、かの有名なリーマンショックに見られる(というかアメリカ国民の気持ちをそぐ決定打の一つであったともいえると思う)ように、当時のアメリカ経済は資本主義の限界が見え不況にあえぐ状態だった。それまで当たり前のように持っていた「アメリカは世界経済のトップ」という自信を揺るがすには十分だった。
そして2000年以降一般的になったインターネットの普及率が75%を超え推移するのが2008年前後 (参考:アメリカのインターネット普及率の推移 - 世界経済のネタ帳)なのだが、それによって彼らは自分たちの国が他国からどう思われているか?という他国からのまなざしに目が行くようになる。
2008年の大統領選挙のインタビュー。アメリカ人の学生の青年はオバマが良いとして、その理由を応えているのだが、その回答が個人的にかなり印象に残っている。

「今まで自分の国がナンバーワンだと疑っていなかった。世界に見本にされているって。でも実際世界の嫌われ者だった(ここに関しては彼自身の主観で多少の偏りはあると思うが、欧米諸国はじめ世界に憧れられていると思っていた落差という意味もあるという感じだった)。だから、僕らは「アメリカは新しく生まれ変わる」ということを世界に見せなくてはならないんだ。」

私は、夜のニュースを見ながら「アメリカ人でもそんなこと思うんだ」とかなり衝撃を受けたのを覚えている。私の知っているアメリカは「自国の歴史の浅さ(ここが既に白人社会視点なんだけど)にコンプレックスは多少あるが、その分それ以上に今現在世界を牽引し世界の警察として機能している、アメリカイズナンバーワン!」というものだったので。
そして「「初の黒人大統領誕生」ということだけで自信を取り戻せるんだろうか?っていうかそれはそれでオバマさんに失礼では…?」とか色々疑問を持ったりした。

まあとにかく、アメリカは不況にあえぐ結果、それまで手持ちの資本ゆえに維持ができた「世界の警察」という立場も維持できず、彼らは自分たちが世界のヒーローであるという自負も失っていく。アメリカ全体にそんな雰囲気が蔓延していたように感じた。
ジョーの「明るいニュースで衝撃を」という言葉を聞きながら、ジョーはそんな彼らに希望を与えたいという使命感を感じているのかなあ…とぼんやりと思ったりもした。
(少し前に書いた通り、このあたりのジョーの一連の発言はかなりモヤモヤするものがあるのですが、誰も傷つけたくないとかのたまう前は、もやもやしつつもこういう風に割と好意的?に並行して考えてみていたのです…そりゃ観劇して疲れるわっつう話なんですが
とにかく、ジョーがヒーローを求める姿は、当時のアメリカ国民の姿でもあったように思えたのだ。

2007年に生まれた「チャイメリカ」という言葉そんなアメリカの持つ矛盾と不安が見える言葉だ。構造的に一党独裁体制や権力の集中の形になり民主主義の維持は難しく、資本主義とは対局。最終的な資本の多さは資本主義に劣るとされた社会主義の国(勿論、資本主義の国の中で根拠なくうっすらと蔓延しているまなざしに過ぎない)は、実際自国の資本を維持するために必要不可欠な存在で、もはや中国なしにアメリカはなりたたない。逆もしかり。倒れる時は心中となるだろうと言われる、大国同士の抱きあいに対するキメラをもじった言葉。

これからアメリカがチャイナマネーに支配されたら?雇用や資本を奪われてしまうかもしれない。大量生産・大量消費で大きくなった国からすれば中国はとてつもない驚異だ。
「そのうち全部元になる!」と言うベニーの経済ジョークに、驚き不意をつかれるジョーはアメリカの1番をまるで疑ったことがない声色だった。

余談のようなメモ
①テスが「イギリスはもう全部メイドイン台湾よ」といっていた時、今現在のEU脱退直前のイギリスの国内に蔓延する生活不安について、ルーシー・カークウッド氏がどう思ってるのか少し気になった。
アヘン戦争から日清戦争あたりの「眠れる獅子は眠ったままだった」と言われてた清から、現代経済大国となるに至った中国のもつ価値観・国としてのプライドについてもベニーを通して思うところがあった。ベニーはアメリカを踏み石としてみている。


ジャーナリズムの公共性と個について

今回劇中でジャーナリズムという明言はなかったが、そのあり方を問いかけられているように感じるシーンが多くあった。

個展の挨拶で「ここのところ謝ってばかり」と言うジョー。
戦車男を追うにあたり彼がしたことは謝ってももうどうにもならないことばかりだ。いろんな人の仕事や人生を壊すだけ壊して、そのまま。
しかしそれでも「ここにある写真に関して謝ることはありません。」そう言ったジョーはジャーナリストとして正しい在り方であったと思う。

ジャーナリストの使命は真実の追求だ。
自身の信念と思想に基づき、誰からの制約も介在も受けず独立性を保ち、社会に対してそのまなざしを提供する。そしてその情報は公共性を伴うものでなくてはならない。
勿論、その追及のために何をしてもいいわけではない。

…とされている。基本的には。
実際のところ、何をもって公共性とするのかという定義はあいまいだし、捉えた眼差しをメディアが取り上げるか否かは、劇中でもあったようにスポンサーや政治的な事情で様々な制約が存在する。
そして、その瞬間を捉えるにあたり、切り捨てられたり破壊されてしまうものがあるのは事実だ。
「シャッターを切る前にその対象に手を差し伸べるべきではないのか。」
人命が先か。写真が先か。有名なのは「ハゲワシと少女」における論争だ。(これにリンクする形で個人的な体験を思いだしたのでそれは後述)
有名な話なので詳細は割愛するが、私は観劇中ジョーの行動がこれに当てはまるのかずっと考えていた。

まなざしに徹しなければジャーナリストは勤まらない。
彼らはカメラを向ける。そのまなざしを届けるのが使命だから。
それは事前の被写体の承認なしにその瞬間が切り取られるし、その後も承諾をとってないことは多いのではないかと思う。

ジャーナリストと被写体の関係は、写真を撮った瞬間はそれぞれ個として対峙している。
しかしひとたび報道という形になった瞬間、そこに個の存在はなくなり、記事を構成する記号のひとつになっていく。
リンが「ヂァン・リン」という個人から「戦車男」になってしまったように。ジョーがあの瞬間使命感にかられシャッターを切ったひとりのジャーナリストから「報道する側」になったように。
でも一瞬が切り取られた後だって、被写体は当然撮った側だって、彼らは心ある人間であるし、生活が続くのだ。戦車男の写真を含めた写真に対して、ジャーナリストとして「謝らない」といったジョーが、その直後にジョー・スコフィールド個人としてリンに謝罪したように。

えてしてメディアのモラルやあり方は度々問題視される。それは報道する側のもつ影響力の大きさ相応の責任があるからだ。ジャーナリズムの在り方、その自由の保証、翻って今回上演された日本と言う国においてそれは果たして本当に機能しているか。
ジャーナリストになるための資格は不要だ。経験や知識に関係なく名乗ればすぐジャーナリストになれる。証明するのは実績のみだ。
彼らはその報道のもとになるまなざしのために各地を飛び回る。
仕事として、野心のため、それしかないから…理由はさまざまだろうが、それらの理由は心のお守りというか、一種の処世術のようなものに近いと思う。彼ら一人一人が心ある人間だからこそある理由。

凄惨な現場をその目で見て、使命として自身のまなざしを社会に出したとしても、社会のまなざしがそう簡単に変わるわけではない。記事を見る人の数だけ心があり、生活があるからだ。
それら全てを動かすこと・向き合うことの途方もなさを実感する度、己の無力さにさいなまれるのは誰よりもジャーナリストその人だ。
何度も危険に身をさらしてまで危険地帯に向かうのは名誉や自己実現のためではない。そこの惨状を「見てしまい」「知ってしまった」からだ。知らなかったふりをする選択もありながら、それをしない。
真実を明るみに出し、多くの人に知らせることを自分自身の使命としているからだ。

危険をおかし、命の保証はなく、どれだけ傷を負ったとしても、ジャーナリスト自身は写真には写らない。その怪我が記事になることはない。
メルが片目を失って、メル自身がその傷を受け入れていたように。
彼らのもつ葛藤や痛み苦しみは誰かの目にうつらない。


悪趣味なショーウィンドウ

発展途上国で死んでいく子供たちを撮った写真で稼ぐ金には上限がある。だろう?」

世界一汚染された川で魚釣りをする子供たちの写真を、それを知らずクレジットカードの写真に使わせてと使用料の交渉と共に言ったテスにジョーが放った言葉だ。
私はジョーのこの言葉が好きだ。あのセリフを発したときのジョーはジャーナリストとしての信念があるように見えた。

同じようにそれを感じたのは言葉のあやではあるが、怒ったテスが「赤十字って何?私に飢えた子供や売春婦たちの救済をやれってこと?ネズミのから揚げ食べるようなところで?私はアフリカがどうなろうとぜんっぜん興味ないから!!」と言った時にジョーが「テスそれ本気?自分が何言ってるかわかってる?」と言った時。
ジョーはその目で実際にその光景を見ている。だからこそ彼の中でやってはいけない、言ってはいけないことの線引きがあるのだと感じた。

劇中では描かれていないが、戦車男を追う以外にもジョーは23年間の中でジャーナリストとして様々な写真を撮っている。テスに告げたジョーの言葉達は、ジョーが写した写真に対して、ジャーナリストとして信念をもっていると感じられたから、好きだった。

しかし最後のジョー自身の個展が行われたとき、色んなものがわからなくなった。
自身のジャーナリスト活動で撮った写真を金銭目的ではないと言って1年もたたぬうちにジョーは個展で自分の写真を売っている。ただの展示ではなく、販売だ。そして値段を決めるのは自分ですらなくギャラリーだ。
2年前は躊躇したのに今回OKした理由はおそらく、世界に衝撃を与えるためのアプローチの変更というのもあるかもしれないが、大きな理由は生活のためと思われる。フランクに見放され、新聞社をクビになって安定した収入源はない。生きていくには金が要る。フリーランスは自分で売りこまねばならないので、この個展はポートフォリオのようなものでもある。
報道写真を含めたのは有名さと客寄せとして有効だから。

ジョーはジャーナリストであっただろうか。
その答えは恐らく観劇したひとそれぞれにに委ねられている。

私は、戦車男を追いかける過程以外のジョーは間違いなくジャーナリストであったと思う。
でも最後に個展を開いたことはどうだろう。過去にジャーナリストとしてジョー本人が持っていた何かを、全部なかったことにしてしまっていることに、ジョーは気づいているだろうか。
勿論これは私が勝手にジョーに対して見ていた「ジャーナリストとしての理想」だし、ジョーの個展そのものに対して良い悪いと言いたいわけではない。だって自分の生活費が必要なのは当たり前で、そもそもある程度生活が安定しないとジャーナリストとしても活動できないのは当然のことだからだ。
そうではなくて、ベニーに9000ドルならと冗談を言うジョーの中に、テスに写真の値段交渉をされた時に眉をひそめたジョーはもういないように感じたことが、なんだか悲しかった。私自身のエゴとはわかっていても。ただ、ジョー本人が自覚なく自分に嘘をついているなら、やっぱりどこか悲しく思えたのだ。

個展を開くとテスに告げるジョーはどこか嬉しそうだったし、幸せそうに見えた。
テスの愛したジョーはまだそこにいたのだろうか。

結局テスが個展に訪れたかはわからないが、メルは来ていた。
メルがきたのはジョーとの長年の付き合いもあるし、自分と同じ「ジャーナリスト」だったからだろう。
片目を失って写真展を見たメルは多分、もう自分とジョーが違う道を歩んでいると感じたのではないか。個展を開くのは写真家としてはめでたいことだ。でもジャーナリストとしてはどうだろう。過去の報道写真に8000ドルの値段をつけて売る行為を同じジャーナリストとして見た時のメルの心情は。
「写真展どうだった?」尋ねるジョーにメルは応える。

「悪趣味なショーウィンドウってとこかな」



個人的体験:カメラマンと被写体

地震に関する話なので、苦手な方は飛ばしてください。

この項目はごく個人的な体験談になる。
先述した「観劇中に「ハゲワシと少女」を思い出し、それにリンクして思い出した話」だ。
この感想全体からみると補足のようなものなので、読み飛ばしても問題ない。

ジョーとリンの関係を見ながら、私は自分の中にある報道と個に対して深く考えるきっかけとなった印象的な出来事二つを思いだしていた。いずれも阪神淡路大震災に関連した話だ。

これに関して、今回ここに書くべきか否か最後まで悩んだ。
その理由に関しては、別の事象に関する記事となるが、作家の有川浩氏の文章がとても的を射ている。記事自体はジャーナリズムの話ではないのだが、時間があれば是非全文を読んでほしい。

「だからこそ、震災の「被害」について軽々に語ってはならないと思いました。
大した苦労もせずに震災を過ごした私が、被害の痛ましさを分かったように語ってはならないと思いました。
それは、当時、私と同じようなレベルで震災を体験した人々の間に、暗黙の了解としてあったことのように思います。 」
(有川ひろと覚しき人「神戸「世界一のクリスマスツリー」について個人的に思うこと(※追記あり)」)

多くの死者、負傷者があった中、自宅も家族も無事だった私が阪神淡路大震災についてこうやって不特定多数に向けてしゃべっていいのか、正直かなり悩んだ。
加えて、阪神淡路大震災に限らず、地震津波、豪雨…多くの自然災害や人災にが発生し、被災が未だ続く方もいる。
色々考えて、インターネットという半匿名の形ではあるけれど、あの日から今日までずっと自分の中に収めていたものを、本当に初めて人に話したいと思えたので、その気持ちを大事にすることにした。
「見たから聞いたから、知っている」というものではなく、「被災者」として話したいわけでもない。
ただ、有川氏が言っていたように「体験者」の端くれとして、この舞台を通して感じたまなざしの話として話すことをゆるしていただきたい。


メディアとの対面

阪神淡路大震災当時、私は小学生に上がったばかりかまだ満たない年だった。

下から突き上げるような衝撃に目が覚めた。
どうすればいいかなにもわからなかった。体も動かなかった。
しかし母は違った。
横ですごい勢いで飛び起きた母は、迷うことなく私と妹の上に覆い被さってきたのだ。

真っ暗で揺れる中、薄目で見上げた母は目をぎゅっとつむり、多分とても怖かったんだと思う。耐えるような顔だった。
私は、馬鹿みたいな話だけど「わたしはおかあさんに愛されているんだなあ」「おかあさんの子供でよかったな」なんてことを多分生まれて初めて明確に自覚して胸がいっぱいになって、泣きそうになっているのがばれないようにするのに必死だった。
今思い出すと本当にずれたことを考えていたのだが、今でもはっきりとその感情を思い出すことができるくらい強烈に印象に残っている。
多分、私が地震中に恐怖を感じた記憶が薄いのはそのためだと思う。

揺れが収まりすぐ、父が部屋に飛び込んできた。
家族の無事と家の安全を確認し、リビングに集まった頃には日が昇っていた。幸いなことにマンション全体の電気は無事だった。

倒れてサイコロみたいに転がったテレビを元の位置に戻すと前日通った高速道路が横向きに倒れている映像が流れていた。
ヘリコプターの音と実況の声が響く。
遠い国の出来事のようだった。

結果的に家財と家の中に多少の損害、水とガスが2週間程止まる程度の被害で済んだのだが、正直その間の記憶はあまりない。
当然家の外には出してもらえず、テレビはずっと瓦礫と避難場所の映像と、それに対するうるさい大人の声でいっぱいで、テレビをみないようになったのはすぐだった。

そして2月。電車が動くようになり、震災後初めての外出で三宮を家族で歩いた。
父の仕事場があった関係もあるが「きちんと見て覚えておかなきゃだめだろう」と言ったのが、理由はわからずとも何か大事なことのように感じた。
それまで何度も出掛けていた神社も繁華街の景色も大きく変わっていて、目の前の景色なのに現実感が何一つなかった。

そんな中で私は生まれて初めて「メディアを作る側」と対面する。

派手に倒壊した建物と建物の前で呆然としている人、手を合わせる人、泣いてる人。
そんな人達にカメラを向けて、写真やテレビにうつす人たち。

それをみたとき私は理解できなかった。
泣いてるのになんでとるんだろう。
私はここにいるだけなのに、なんでカメラにうつらなきゃダメなんだろう。うつりたいわけじゃないのに。
目の前の倒れた建物でなく涙や手を合わせる人たち、景色変わった街に呆然とする人をとろうとする大人たちの姿が幼心にとてつもなく不快だった記憶がある。
今思えばそれは「見世物にされてている」と感じた不快さに近かったのかと思う。

街全体が報道の被写体だった。
幼いながらも自分1人にフォーカスが当てられているわけではないとはわかっていた。それでもその景色のひとつとしてうつるのもとても嫌だった。
それを映すカメラをとる人たちがとても嫌だった。
他の人がどう思っていたかはわからない。
でも私は嫌だった。

真実を伝えるという意味で報道写真はとても大きな価値がある。
その一瞬は世の中を動かすことができる可能性を秘めている。

でもその被写体を救うとは限らない。
景色の中にうつる人、一人一人に人格があり感情がある。
残したいとも思っていない一瞬を切り取られ、知らない誰かに見られることでうつされた人がどう思うかなんて配慮はカメラをもった瞬間に消えてしまうのかもしれない。あるいはないからカメラが持てるのかもしれない。

この可能性は別に災害時に限らなくても日常にいくらでも転がっている。
街中の事件や事故、有名人をみかけた、パパラッチ。…スマホが当たり前の今、別にメディアの仕事に携わらずとも誰だって「写す側」になれる。

ジャーナリストは、メディアに携わる人間は眼差しを提供するのが仕事で、被災者を助けるのが仕事ではないし、そこを気にしてしまえばもう職務はままならなくなる。
本人の承諾なくカメラを向ける行為は、彼らの仕事でもあるのだ。
だってカメラを意識した被写体は彼らの望む「真実」の瞬間の姿ではないのだから。
そんな大人の事情は当然幼い私にとっては関係なく、メディアは「不躾な心ないモノ」として深く印象に残った。

私の「必要以上に騒ぎ立てるテレビ番組や報道に対する苦手意識」「不躾に向けられるカメラに対する嫌悪感」は多分おそらくここから来ている。


個への転換

十数年後、進学し高校生となった私は友人の家に遊びにいくことになった。
彼女の家は三宮にあった。
たわいない話を重ね、地元の話になり、あの店は新しいか否か…と続き、震災の話に流れていった。
「震災のときどうだったの?」と彼女に聞いたら、彼女の家も倒壊は免れていたが、やはり大変だったと思い出を語った。

「お父さんが神戸新聞で働いてて、ずっとおらんかったわ。家が無事やったしすぐでて。しばらくはたまにご飯ちょっと食べに帰ってくる感じやった」

一瞬、返事をどう返したらいいかわからなかった。
私が、メディアと言う漠然とした対象の、遠い世界の人達だと思っていた中に明確な「個」を見つけた瞬間だったからだ。この時私は初めて、自分があの時「映す側」にいた人々をメディアという大枠でみていて、彼らも一人の個をもつ人間であったことに気づかされたのだ。
彼らが私を災害のあった地域に住むひとつとして捉えたように、私は彼らを「メディアという心ないもの」として捉えていた、と。
自分が同じ目を持っていることに気づかなかったことがとても恥ずかしかった。

「無知は言い訳にならない!」という昔読んだ本のセリフが頭に響く。
人にケガを負わせる罪をおかした人を「だって知らなかったんだから」とかばう人に対して、はっきりと否定する言葉だ。自分自身の行動が誰にどんな影響を及ぼすのか、どれだけ理解しているのか、何か起こった後に「知らなかった」ですむわけがないことはいくらでもある。
その本を読んだとき、他人事として読者の立場で「難しいけどそうだよね…」と思っていた言葉を言われる立場に自分がいると気づいて、恥ずかしかった。

彼女のお父さんは、娘の友達が遊びにきたならと仕事帰りにドーナツを買ってきてくれるような、いいお父さんだった。


テスについて/ジョーとの関係

この舞台におけるテスの役割はなんだろうと考えていた。
彼女の性格はなんだか不思議だ。
素直なまっすぐな言葉を誰よりも求めていながら、彼女自信は照れ隠しでもなく、素でひねくれているというか、素直ではないというか…ツンとした返しが多い。
相手に否定をされる前に自分で否定をすることで盾とするような、そんな臆病さ。
(テスのこの返し方は、イギリス人のステレオタイプという見方もできるかもしれないが、個人的に皮肉の返し方なら正直リンの方が「らしい」よね!?って思ったりしました…)

アメリカ人と中国人が多く登場する中、ひとりイギリス人として登場する彼女は、脚本家のルーシー・カークウッド自身のまなざしの代弁でもあったかもしれない。

ジョーを好きになってしまった女性

一人の女性として、愛する人と引き裂かれる花屋の夫婦に同情し、ジョーとの食事を楽しみにする。どこか素直じゃないテスは、登場人物の中でこと愛情に対して敏感だった。

テスは多分、ジョーの優しさやまっすぐなところにひかれたのだろうと思う。
ジョーはその瞬間瞬間は間違いなく優しくて、ただ未来に対しては漠然としていた。
テス自身がジョーとの結婚に対して少しも期待していなかったといったらそれは嘘だと思う。
もし期待していなかったら「仕事をやめちゃおうかな」「やめてもいいんじゃない?」という応えに「じゃあなにをしたらいい?」なんて少し試すように問いかけないし、その答えが「赤十字とか」なんて突然世界規模の奉仕活動を言われてあれだけ怒ることもないのだ。

そんなテスはジョーの子供を身ごもり、久々にジョーと再開する。
「イギリスに帰ったと思った」「まあとにかく、おめでとう」「今彼女いるんだ」
約半年の経過でテスはすっかりジョーに取って過去の人間となっていた。そしてジョーは自分の子供をテスが身ごもっているとは知らず他人事のようにテスのおなかを眺める。
知らないことはやはり幸せで残酷だ。

マイクというは彼は本当に存在していたのだろうか。
プレゼンの相棒でテステスマイクテスなんて言っちゃうような。

そんなテスの言葉も素直に受け止めて、タイミングが悪いけどと愛を囁くジョーをやっぱりテスは嫌いになれなかったんだと思う。
そうじゃなければ、多分綺麗だなんて言われる写真は撮れないだろうから。

まあそれにしてもジョーの「綺麗だ、想像していた通りだ」って言葉は、なんかめっちゃツッコミたくなったんですけど!
「何勝手にきれいに終わらせようとしとんじゃーい!!」っつうの!

テスの変化/テスのまなざし

ところで前半、テスが学生時にチェ・ゲバラと戦車男の写真を並べていたというのを聞いたとき、私はなんとなく「テスは社会に対してずっとどこか自由を求めている人なのかな」と思った。
実際の理由は雰囲気やファッションかもしれないし、何となくかっこいいという理由だったのかもしれない。
それでも学生の時並べて眺めていた有名な写真を幼いジョーが撮っていたということはテスには一種まぶしいものがあったのではないか。

ジョーと過ごすうちにテスの中で変化は起きていて、それが花開くのがあの「よく覚えれたなあのセリフ…」という長さのプレゼンシーン。
中国市場の開拓に対し警鐘をならすが、チャイメリカという言葉が生まれたように、アメリカと中国の経済活動は複雑に入り混じりもはや分離不可能。まさしくキメラの様相だ。

政治的に抑圧され言論の自由がなく苦しむリンの姿が多く見られるこの舞台の中で、テスが反資本主義運動に傾倒していく(本気でなのか興味があるからなのかは正直わからないが)のは、他の登場人物たち少し違う視点で、あの舞台の中では異色といってもいい。
しかしこの「チャイメリカ」という戯曲名に対して最も近い視点を持ってもいる。

テスにとってはヒロイズムもジョーの仕事もさして重要ではなく、大事なのは「真実その場にあるもの」だ。ジョーが優しかった。川の水が汚染されていた。中国という得体の知れない市場と共に歩むリスク、仕事という口実で異国にとどまり子供を産むという選択。
アメリカと中国」の話はテスにとっては「経済の話」で、「戦車男の話」は「ジョーが追いかけているもの」だった。
イギリスという国として、女性として。テスのまなざしから見るこの戯曲は、ジョーの視点とは全く違う。アメリカと中国を見るテスのまなざしは現実的で自国の経済と雇用に対して含むものがあるようにも感じられた。

…ところで、自分の牛乳をかけられた顔を個展に出されるってテス的にどうなんだろう…ジョーは多分悪気はないんだろうけど、個人的にはどうなんだ…!?っていう。


舞台セットと座席について

今回2回の観劇はどちらとも三階見切れ席で、それぞれ上手下手となった。
この席でよかったところと残念なところがそれぞれあるのでそのことについて。

よかったところ
観劇した片はわかると思うが、舞台中心の回転盤はフル活用だった。
中2階、左右前後からセットは入れ替わり、上からも吊ってくるし、スクリーンもガンガン使う。
同時刻のアメリカと中国の表現、戦車男を探しニューヨーク中を歩き回る表現……アメリカ側は特にセットの入れ替わりが激しかったと思う。

三階席見切れ席でよかったのは、そんな舞台の入れ替わりを間近で見れたことだ。
回転盤の後ろ側は丁度中2階の影に入る部分なのだが、その影に更に暗幕をはって次の場面のセットの準備を行っているのがうっすら見えた。
上から見てもわかりにくいその丁寧さによって、冷蔵庫の中にリウ・リが入っていたり、ボロボロのヂァン・リンが出てきたりという光景が、影のなかからスッと現れるように見えるのだ。
三時間の舞台にいるのが役者さんだけではなく、多くの人が音もなく静かに存在している様は、なんだかとてもかっこよくて、大勢の人達の手によって舞台が成り立つ姿は、胸が一杯になった。

いや、本当あれだけ大がかりな舞台転換してるのに物音ガタガタしてないの。本当にすごい。
円盤の回転の音はさすがに仕方ない(2回目は少し音が小さくなっていたように感じた)か…というものはあったけど、やはりそれ以上にたくさんの人の手によって舞台が作り上げられていくのをこの目で見れたのは本当によかった。


残念だったところ
では残念だったところはというと。
赤いライトで真っ赤に染まる瞬間と、ラストシーンのリンと写真が重なるところだ。
赤いライト照明範囲の関係で光に包まれるのが一階席の3分の2くらいで、当然三階席は包まれない。
あの赤い光の中にいた人達は全てが真赤に染まる世界でより恐ろしく生々しいものをを体感したのかと思うと、純粋にうらやましかった。強烈な赤に視界からくらくらしながら味わう衝撃は、
本当にあの中で体験して見たかった…。

あともう一点はすごく大事なラストシーン!!
リンが戦車男の写真と重なり、舞台に一枚の戦車男の写真が完成するシーン。
三階見切れ席だとリンの頭が中2階のに隠れて、初見時は一瞬はけてるのかとおもってしまった…。
2回目もやはり頭というか腰まで隠れるのでもはや表情も何も見えなかったので、見える席の方は本当に羨ましかった…!
加えて舞台まるごと使った写真の完成はすごい衝撃だったんだろうも思うと本当に……!
しかしまあ、席に関しては運なのでしゃあないのです。

あとこれは三階席云々とは少しずれる話なのですが。
上記のラストシーンの画が見れなかったのと、私自身が実際の戦車男の動画を知っていて(わりと軽やかに動く)それがラストシーンの茫然としたリンの姿と一致しなかったこと、加えてリン自身が「似てる誰か」とか言うしで、初見時「リンが戦車男だったってこでいいんだよね…?」と少し混乱してしまって、これは本当自分もったいないことをしてしまった…と思った。
中途半端な知識から、思いこみと言う名のかたよりのある目線になってしまって、そこは本当に自分で猛省してます。
帰りの山手線辺りで、自分の中にある僅かな戦車男ではない可能性にずっとうんうんうなっていて、悲劇喜劇と二回目でようやく確信を持てて安心はしたのですが、やはり初見であの衝撃をストレートに味わえなかった自分に自分で悔しい…。ここまで考えるとやっぱり完成した戦車男の画も正面大画面で見てみたかったです…。


番外
そして最後は個人的にぎゃーってなった話。
初回は三階上手だったので、観劇した方ならわかると思うんですが、冒頭ジョーがヂァン・リンに、あのホテルのあの部屋で写真を撮った!と広場からホテルを指差すシーンがあるんですが、その時田中圭氏が三階席の見切れ席の上辺り(多分天井?)を指さして顔むけるんですね…。
自分の方を向いてるわけではないと頭ではわかってはいたけど不意打ち過ぎ&破壊力すごすぎで、一瞬息とまりました…。

田中圭は実在していた(地球は青かった)

いや、もちろんちゃんと静かにしてました!…というか、自分の動揺を表に出さないので精一杯でした…。しかし一瞬でこれだから、本当に遠い席でよかった。
舞台の神様ありがとうございます…。
サメの時はこんなことなかったのですが、やっぱり、例え実際にこちらを見てないのだとしても、三階席なんて向くこともないだろうと完全に気を抜いてたのとか色々…色々…。
ああーーーいや、何言っても言い訳です。
本当、舞台を観劇しにいったのに一瞬とはいえこんな浮わついた気持ちになってすみません…
でもチャイメリカという舞台で色々楽しんで考えさせられたのは本当なので…!

 

好きなところエトセトラ

この舞台出演者も多くて好きなシーンも多くて、色々あるんですが、全部言ったらもうこの舞台最初から最後までなめるようなもんだし時間と文字数の限界なので簡潔に!

メルとヂァン・ウェイ
この二人に関しては、ジョーとリンの話の箇所で散々好きなシーン語ったのですが、このふたりの立ち位置も興味深かった。メルもある種ジョーの兄のような存在で、立ち位置的にはリンに対するヂァン・ウェイのそれと同じで共通点がありながら、それがもつ思想とまなざしが対局の位置にあったなあと。

フランク/公安警察…というか大鷹明良さん
保釈金を払い対面したジョーに「マリアに電話をした。」から「クビだ」までのフランクの長台詞のシーン好きなんですが、ここの大鷹明良さんの声がとても気持ち良くて、本当に好きだったりします。「礼儀正しく、おちついて、春風のようにさわやかな口調で」に対する「なのにマリアは違った。電話口から北極の風が吹き下ろしてきた」の抑揚の落差が本気で春から厳寒のそれで、たまらなくて。いやー…本当にいい意味で耳に残る…響きも素敵で、フランクの登場シーンは本当耳にも気持ちよくて好きです。
そして公安警察の時は声色も変わってて…こっちの声はあんま聞きたくない…すごい…。
というか、方やジョーの面倒を見て温かく動かそうとし、方や公安警察として恐怖でリンを動かそうとしていて、もはや大鷹明良さんがひとり北風と太陽だった。

デイヴィッド
マリアに従い基本的に目立たず落ち着き静かであったデイヴィッドが、唯一感情をあらわにしたジョーの自宅でのシーン。すごく好きです。「ジョー…想像力ないのはお前だよ…」って思わされるくらい切実な怒りだった。マリアとの間に何があったかはわからないけど、デイヴィッドの中でヒーローはまさにマリアその人で、それを支えることに使命を感じている。そんなデイヴィッドにとってジョーの行動は本当に悪人以外の何物でもない…。ジョーに「想像力がない」と返されたデイヴィッドが何を思ったのかがきになります。

富山えり子さん
やたら印象に残っています。存在感!
ポンスゥの妻はもちろん、ウェイトレス、マッサージ師にストリップ女優…全員中華系の女性であったけど、なんだか彼女が出てくるとつい目で追ってしまいました…。どこかコミカルでかわいくて、あの舞台の中で少ないクスッとくるようなシーンに彼女は多かった気がします。そしてそれがまさか妻として最後の叫びに至る落差として効いてくるとは…その時は思いもしませんでした…。

ヂァン・リン/満島真之介さん
リンは結構きつい皮肉を言うのが個人的にすごいツボでした。そんだけきついこと言いながら健気というか頑ななところのあるギャップがこう…よかったです。偏見なのは承知の上なんですが、中国人は結構ストレートにはっきりものを言うイメージがあったので、リンの言動のまわりくどさはたまにイギリス人か!?って思ったりしました。好きです。
あと、満島真之介さんはこの舞台を連日…というか1日2回公演とかしてる日、マジで精神状態大丈夫だったんですかね???私は初回、午前を見にいってて、見てただけでドッと疲れて劇場を出たんですが、世田パブ入り口にいた夜公演当日券に並ぶ人たちをみて「1日2公演とか地獄やん…」と素で思ったので…。いやこれ出演者全員に言えることではあると思うんですが、特に…。
ご本人になんとなくハイテンション!なイメージがあるので逆にいいバランスなんですかね…?教えてしんのさん!!ってくらい本当お疲れ様でした…ありがとうございます…。


あーもう、全然たりない!いやもう、ほんと、もう最初っから最後まで、全部全員すごかった!!書ききれなくてすみません…!!
本当に書こうと思ったら本当悲劇喜劇片手に1ページずつ感想になって終わりなくなっちゃうんで…本当すみません…。

 

ジョーについて私見の補足

ところでこの感想では割とジョーに対して色々言ってるんですが、やっぱり個人的には責めきれない…というか責める立場ですらないんですよね…。
だって、私が知ってるジョーは劇中でみた姿だけだし、他にどんなことをして何を考えているなんて本当はわからない。41年生きた彼の人生のうち、観劇した分だけの彼しか知らない。(これは他の登場人物にも現実にも言えることだけど)

それを踏まえた上で、「戦車男追いかける過程のジョー」がジャーナリストとして正しいとは個人的にはやっぱり思えなかったし、誰かを傷つけたくないといいながら人を傷つけている様は腹が立った。


見方を変えれば、そもそも花屋の夫婦の不法滞在はジョーの行動関係なく違法行為だし、マリアが過去に過ちを犯していたのも事実だし、テスは電話にこだわらず一旦メールを送ることもできた。フランクは監督責任がある立場でその責任をクビという方法で手を打ったし(保釈金は親心と手切れ金と思うと切ない…)、リンももっとうまくごまかすか、自分が戦車男だと言ってもっと違う手を打つことだってできた。
ジョーの行動によって壊れてしまったものは多くあるけれど、壊れる可能性自体は別にジョーがいなくたって存在はしていて、結果を作ったのはジョーひとりではない。引き金は引いたかもしれないが、弾を込めたのはジョーひとりではなかった。

いや、まあ田中圭氏の言う通り、電話は折り返そうよ!?と思うんですが…。
ついでに言うと、情報を取り扱う仕事をしながらそれはどうなんだ…!っていうのもあるんですが。
何がいいたいかというと、ジョーを責めるのは簡単だけど、見方を変えれば誰だってジョーになりうる可能性があるからこそ責めきれないよなあと。罪を犯したことがないものだけ石を投げていいとかじゃないんですけど。自己保身ではないんだけど色々考えさせられました。

まあとにかく、それでも今この瞬間・目の前の事実に対して発するジョーの言葉は心からの真実であると思えた。でも同時に、何かに気をとられればその瞬間・または
一晩たってしまえば忘れてしまうような、そういう残酷さを持つ人でもあったようにも思えた。
フォーカスを向けた瞬間、どこまでも真摯に向き合うのに、フォーカスが外れたらもうそこには見向きもしないような。
「こんなことになるなんて思ってなかった」「ただ知りたかっただけだ」「僕が間違ってた」「知らなくて」「僕本当に、本当に申し訳ないことを」…劇中でジョーは何度も己の行動について謝り、その言葉は心からのもののように聞こえて。でも、そこで終わってしまうような、謝まった後反省したり何かのアクションがあるようにも見えないそういう感じ。
瞬間、瞬間に生きているような、カメラのような。そんな人だったなあと振り返ると思うのです。

好きも嫌いもなく、興味と無関心でできているようなそういう純粋さと残酷さが顕著に見える人だったなあと。


私見の補足:田中圭氏の演じるジョーについて
公演終盤の田中圭氏のコメントからするに、田中圭氏の中のジョーの像が最終的にどこに行きついたのか、やっぱり見てみたかったという気持ちはとてもあるのですが…そこはないものねだりなので置いといて。
前半で2回見て確信したのはやっぱり「愛嬌がある」なあと。
怒るデイヴィッドとの会話、悲劇喜劇でセリフだけ見るジョーのセリフはとても冷たい印象だった。
でも実際劇場で見たジョーはいぶかしがりながらもどこかデイヴィッドに対して親しみがあった。目の前の人にはどこか好かれるように無意識にふるまうような、人の好意を掴むのがうまいような。(少し意地悪な言い方をすれば「無意識的に悪者にならないようにふるまう人」)
そして少年のような好奇心と夢を抱えながら比例するように無関心さに残酷だった。

いやでもまあ、このへんに関しては私が田中圭氏のいちファンなので完全に自分の目にファンフィルターかかってる気がするので…う~ん。
とにもかくにも、この人物背景の見えにくく戦車男以外はどこか淡泊に感じる戯曲のジョーから、こうやって子供っぽさと身勝手さが同居するような(下手すればクソ野郎とか言われかねない)人物に仕上げて演じられたのは本当すごいなあと。ポストトークで色々話されたっぽいのでこの感想あげたらレポ探しの旅に出たい…。

…とはいいつつ、いやーやっぱ完成系のジョー見て見たかった!笑


おわり

おわりです!!!
ここまでスクロールで飛ばさずに読みきった人いるんですかね…私は次に自分で読み返す時多分スクロールで飛ばすと思いました。

当初は2000文字くらいですっきりシンプルにまとめようと思っていましたが、せっかくだし好きなだけ書けるだけ書こう!って思ったら止まらなかったです。
同じこと繰り返して言ってたりで、完全にチャイメリカのまなざしの多さに翻弄されているのがよくわかる感想だなあと思います。
感想書きながら見えない終わりに疲弊し(途中、健康応援医療保険の新CMにめっちゃ元気もらいました。CMの意図と違う取り方をしてるのは十分に理解してますすみません…いや~~あの田中圭氏めっちゃかわいい…サンキューアフラック…)、若干生活に支障をきたしながら何回か「絶対もう同じような…っていうかもっと簡潔にわかりやすく感想書いてる人いっぱいいるでしょ…もうええやろ…」とか思ってたんですが、やっぱり自分がこの舞台を見てたくさん感じたものを、自分のためにも言葉にして残しておきたかったのです。

チャイメリカ千穐楽までに感想書き終わってよかった…。
あとこれでようやくチャイメリカの感想読みに行ける…!人様の感想読んだらそれで満足してもう感想書かずに終わってしまうのが目に見えてるので、自分で勝手に我慢してたんですが!
これでようやく私のチャイメリカ観劇が終わる…!

あと、これだけあーだこーだ言っといて今更なんですが、この感想のすべてが私の主観という名のまなざしに基づき書かれているので、全然違った感想持った方や、万が一関係者の方が読んで「そんなつもりじゃなかったけどな…」とか思っても「多様性だね~~~!」って感じで笑って流して下さい。一観劇者としてそう受け取ったんだね、みたいな。
というか、これから人様の感想よんで、自分の感想がめっちゃずれてたら恥ずかしいことこの上ないのですが、なんかもうそれも感想の一つだね~って感じってことでご容赦ください。

とにもかくにも、自分で読んでも読み飛ばすくらい長いので、本当もし最初から最後まで読まれた方がいらっしゃったら本当にそれだけで感謝しかないです。ありがとうございます!
 
そして何よりも!
チャイメリカという素晴らしい舞台が見れて本当によかったです。
本当にありがとうございました!!!
残りは大千穐楽!がんばってください!!!!!

チャイメリカ感想おわり!
(20190309)

20190310修正:ヂァンのところをヂャンと表記していたため、修正しました。すみません…!