sukikatteni’s blog

好き勝手つぶやいてます。

舞台「サメと泳ぐ」考察のような感想(ネタバレあり)

舞台「サメと泳ぐ」見てきました。

結論から言うと、見にいってよかった!すごく楽しかった!
8800円は実質タダ…と素で思ったくらい濃密で楽しい3時間でした。

そんなわけで久々にこのブログを打ち始めた次第です。すみません最初に言っときます。長いです。

 

この感想について(注意と目次)

まず、この感想は、ネタバレを大いに含みます。
その上散文なのでめちゃめちゃ長いです(約18000字)。
あと、べた褒めというより引っかかったところを「こういうことかな~」ってこねくり回してる感じなので、その辺もご了承ください。
私の観劇は東京公演の後半、夜公演。
現時点で原作、パンフレット共にまだ未読未視聴です。
(観劇後のあーだこーだ考える余韻を楽しみたくて、この感想打ち終わるまではパンフレットもお預けにしてます)


最初に言った通りこの舞台、私に取ってとても楽しく思い出深いものになりました。
その理由は大きく分けて2つ。
 1.人生初の舞台観劇による興奮
 2.「サメと泳ぐ」そのものに対する興味深さ

「サメと泳ぐ」の内容(ネタバレ含む)に対する感想だけ目当ての方は目次の2から読んでください。
1は完全に私情ですがそこそこ長いです。 

いやだってさ~~本当楽しかった!!
ここを読んでる人からすれば私が人生初観劇とかそんなんどうでもええわって感じかもしれないけど「うるせ~!!!しらね~!!!FINAL FANTASY(元ネタはグーグル先生に聞いてください)」って感じだし、私はそれくらい今回の舞台でいっぱいたくさんのものを受け取ったんだよ…。
本当にありがとうございます…。

1.観劇に至る経緯と観劇まで

さて大前提として、まずこの「サメと泳ぐ」、私の人生初めての舞台観劇です。
正確に言うと人形浄瑠璃とか歌舞伎とかそういうのは社会科見学で見たこともあるし面白かったな~という記憶はあるんですが、こういう普通のお芝居を見たことはなかったのです。
更に言うならミュージカル、ライブ、フェスとかそういう舞台関係のもの全部含めて見たり行ったりしたことがなくて、「舞台を自分の意思で見に行く」ということ自体が私の中でかなり大事件だったんですよ…。
(正直いまだに自分の行動に驚いてます…)

これまで私の中でお芝居は、なんとなく遠いというか、理不尽だったりどこか後味が悪い感じで終わったり、前衛的・挑戦的な作品が多いのかなーとかそういうイメージがなんとなーくあって(実際は違う作品もいっぱいあるとは思うんですが)、正直「お芝居を見る」ということをちょっと避けてる部分がありました。

じゃあなんで今回は見にいったのかというと。
そのきっかけは最近何かと話題の田中圭氏になります。
実を言うと某おっさんドラマで田中圭氏にはまって「田中圭MOBILE(以下圭モバ)」といういわゆる会員制ファンクラブのサイトの会員になってしまったんですね…。(この「誰かにはまる」っていうのも初めてなんですが本題ではないし長くなるのでおいときます)
で、その圭モバのコンテンツの中で会員だけ読めるブログがあるのですが、そこで田中圭氏が「サメと泳ぐ」についてなんかすごく楽しそうに話されてたわけです。(というか、関わられているお仕事について基本的に全部楽しそうに書かれていて、いつも読んでははちゃめちゃに癒しと元気をもらってる月額340円は実質無料コンテンツなですがこれも今回の本題ではないので以下略)

私はとても単純な人間なので、田中圭氏が色んなインタビューで舞台についてお話しされてるのを読む度に少しずつ舞台に対するイメージが変わっていたのですが、そこにとどめとばかりに田中圭氏がブログで「サメと泳ぐ」について楽しそうに話してるから、「なんだそれ~~~!!!なんか内容は全く知らないけどめっちゃ楽しそう!見にいったらどんな景色が見えるの!?何が見れるの!?」ってわくわくしてきちゃったんですね…。

ただまあその時点でチケットは既に完売、前日の当日券予約の電話チャレンジも毎回惨敗(1日平均25分180回以上かけまくって毎回全然つながらないんだな…)で仕事もあるし(当日券は開演1時間前に受付)で見れね~~~~~!!!!ウオオオオオ(漢泣き)ってなってたんですが、さる平日ついに当日券チャンスが巡ってきたのです。

さて、ここで更なる私情になるのですが、私は自分の好きなものを身近な人に知られたりのすごく恥ずかしい質だったりします。
この傾向ははまればはまるほど顕著で、今回の田中圭氏も例外に漏れず。
しかも生きてる人間ということで余計に慎重になってまして。周りにジャニーズファンが結構いるので彼女たちの話をいつも聞いては楽しそうだなあと楽しく話を聞いてたのですがいざ自分が人にはまるとどうたち振る舞えばいいかわかんなくてさらに慎重になってしまったわけです。
やっぱドはまりしてるとなんでもかわいくかっこよくみえるし、色んな判定も甘くなるし、心のどこかで人物像に対して理想やらなんやら勝手に抱いてしまう。
何らかのファン活動続けてるとその自分の中にあるエゴの固まりみたいなものとどうしても向き合わざる得ないわけで…例えその対象者がこちらのことを認識してなくても、そのエゴをもってその人を見てることに罪悪感は抱くし、自分で自分が許せないというかまあでもやっぱ好きだから情報は集めるし~!みたいななんかもうとにかく自分の言動がすごく恥ずかしいわけです。いや田中圭氏からすりゃそんなの知ったこっちゃねーっというかそもそも認識すらないのは重々承知で、本当に私の心の弱さの問題です。 

で、まあそういうことがあって田中圭氏にはまったことも未だに誰にも言えてないんですね。(だからここやツイッターで思う存分好きなもの叫んでるんですが)
そのため初観劇に向けた心構えとかマナー、ルール、チケットの受取場所とか…っていうかそもそも世田谷パブリックシアターってどこにあるねん…と、兎に角どうしたら見れるのかということが全てわからないことだらけで、でも人に聞いてもし好きなものがばれたら…と思うとそのリスクが怖くて聞けず、最終的に公式サイトのインフォメーションとネットの情報だけを頼りに人生初観劇に臨んだわけです。

仕事場から三軒茶屋に向かう電車にのって当日券受付に並ぶまで、指は震えるわ心臓がバクバクするわ、足の力が抜けそうになるわでもう大変でした。
必要最低限の装備とお金だけ持って旅に出る勇者の気持ちこんなんかもな…って思いながら、オシャンなイメージのある三軒茶屋駅で降り、堂々としたふりをしながら世田谷パブリックシアターまで向かい、当日券受付に並んでる人たちを見た時は「村だ~~~~!!!」って気持ちでようやく息をつけた気分でした。(いやスーパーマリオRPGくらいしかしたことないんだけど)
「っていうか既に30人くらい並んでるし大丈夫か…いやダメもとでここに来たんだ、ここまで来ただけでも私は頑張ったよくやった…いやでもやっぱここまできたら見たいよ~~~~~~!!!!もう私やれる限り手は尽くしたよ神様ーーー!!!!」とかぐるぐるしてたら気持ちはおちついてきて、結果席に案内されました。
チケット買うとき声震えてたと思う。受付のお姉さんごめんなさい。
そんなわけで観劇が始まるんですが、もうすでにここまでの時点で私の初めて尽くしで興奮度がすごい。(まだ席にすらついてない)

そして開演10分前、チケットを見せて足を踏み入れた世田谷パブリックシアター
天井高っ!っていうか舞台近っ!!!!!
昔合唱部とかピアノの発表会で見たコンサートホールとか映画館みたいなのをイメージしてたので、予想以上に舞台が近くてビックリしました……。
加えてすごく音が響くし通る。
1階席から天井まで見上げて、席につく人達みんなこれから同じ舞台を楽しみに待ってる人達なんだな…って思うとなんだかそれだけで嬉しくてワクワクして、あのシアターの景色全てが新鮮でなんかもうすでに胸いっぱいでした。すごく素敵な空間だった。
そんな雰囲気にのまれて「サメと泳ぐ」の期待値が私の中で勝手に上がりはじめてしまうわけです。

事前ネタバレを避けて公式サイトのあらすじの頭3行くらいしか読まないようにしてたので、急に不安になってくる。これで舞台自体が面白くなかったら…なんかよくわかんない感じとかで楽しめなかったらどうしよう……。

杞憂でした。

最初に言った通りめーっちゃおもしろかった!
人生初の舞台観劇だったのですが、最近CMとかでよく見る仕掛けが大掛かりだったり衣装が派手だったり、圧倒的パフォーマンス!!みたいなエンターテイメントしてる舞台というより本当に正統派の舞台!って感じだったなあと思いました。(あくまで観劇ド素人のイメージなので違ってたらすみません)

2.舞台「サメと泳ぐ」考察のような感想

ここからがっつり内容に触れるしネタバレになりますので未観劇の方はご注意をば。
演出やらもろもろ、舞台ではド定番なことかもしれないんですが、如何せんすべて初めてなので全部に驚いてますのでご了承ください。

舞台セットや演出・音楽

まずは、舞台のセットがすごく機能美溢れてた!
エリアが三つに別れていて左右に中二階、二階があり終始それぞれの場所の役割が明確だった。
加えてセットの位置が最初から最後までほぼ変わらなかった(終盤で家具がひとつ動くくらい)ので、動線もきれいだった。裏側がどうなってるのかみてみたかったな。

個人的にビックリしたのは、バディのオフィスでそのまま(本当にそのまま)バーやお酒の席のシーンをやってて、でもそれでちゃんと成立してたこと。
数秒前までバディオフィスの打ち合わせテーブルだったテーブルが 一瞬でバーのカウンターになる。
時間経過や場所の移動を、照明ひとつベルひとつの視線誘導でこんなにも表現できるのか!ってびっくりした。
舞台初めてだからよくある表現なのかもしれないけど、初見の私が見ててすんなり理解できたから本当にすごいなあと思いました。
同時刻に裏ですすむ話、それぞれの疑惑や対立関係、心の中で広がる存在感……そういうものを舞台のエリアや照明をそれぞれをうまく使って表現されてて本当に無駄のない作りのセットだった。

そしてそのセットの中心に置いてあるのが卓上ベル。
このベルは場面転換や主導権、その他もろもろ様々な役割を果たすのですが、個人的に気になったのはその卓上ベルの側にあったぜんまい仕掛けのリスと鳥のおもちゃ。
どれを巻くかとか意味があるのかなあ…と思いつつ、私の記憶力が乏しくてそこまでおいきれなかった…。
リスのおもちゃが動いたときはかわいくて、
ベルにぶつかって止まっちゃって、恐らく本来なら動かなくていいところでちょっと動くのもかわいかった笑

あと、拷問シーンの切って血が出るところ、あれどうやってやったんだろう…。紙をもってる側の手元が見えなかったからなんとも言えないけどマジックみたいで面白かったです。(痛そうでちょっと目をそらしちゃったけど)

音楽はジャズで盛り上げ、ヴィヴァルディの冬がいい感じにきいてる。
「冬」の寂寥感と不安とともに優雅さと華やかさが並行してこっち向かって走ってくる~~!ってパートが舞台を引き立ててた。
ちなみにこの「冬」、冒頭の盛り上がりの後は「たまに雪がやんで穏やかになって美しく優しい顔を見せたと思ったらやっぱり不安にさせてくるしどっちなんだよ~~」って思わせる感じの曲。(クラシック好きの方に怒られそうな感じの感想ですみません)この「どっちなの?」って揺らぎの部分もこの舞台にはあってるなと思いました。
聞いてみるとわかる~ってなるとおもうのでこの感想のお共にどうぞ。

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冒頭の盛り上がりはジョーズのチャーランッチャーランッ♪をちょっと思いだして「サメだから?」って思ってなんか面白かったのは内緒です。(実際は関係ないと思う)

ラストシーン・幕のひき方について

一番に思ったのは「バディこれ悪魔に魂売ってるでしょ…」。
ドーンの言う「あいつは化け物」は的を射ていたなあと。

観劇中、田中哲司さんの内面からでるかわいさなのかコミカルさなんなのかわからないんですが、個人的にバディは憎めないと言うか妙にかわいく見えてたんですよね。
でも最後にバディが色んな所に手を回して、現実すら作り上げちゃったんだなと思ったとき、「こりゃ人間の情はないわ…」とめちゃくちゃワクワクしてしまった。

バディの語ったバディ自身の人生がどこまで本当でどこまで嘘か本当にもうわかんない。
この人は自分自身もプロデュースして、欲しいものにどこまでも貪欲で食らいついて離さない。
わずかにかおるチャンスのにおいを逃さない。
製作のトップを手に入れて満足するような人じゃないし、どこまでもお腹をすかせて泳ぎ続ける…

サメはバディだったのかな。
そのサメと共に泳ぐことを選択したガイ。「サメと泳ぐ」ってそういうことなんだろうか。
うーん。なんか足りない気がする。

ガイはこんな大きな貸しを化け物みたいなバディに作ってしまって、こんなの一生奴隷になってまわない?
どうするの??
最愛のドーンを手放してまで(手放されたというべきかもだけど)選んだ道、本当に自分で決めて自分で選んだの?
私は根が楽天的なので今後の展開を勝手に何個か考えて「いやあの最後の壊れた爆発力あればいつかバディも食えるでしょ」っていう「ガイくんの今後にご期待ください!」エンドとして前向きな結論におちついたんだけどそれ言っちゃうとこの作品の余韻もろもろぶち壊しな気がするのでおいといて。

ラストシーン、ガイは晴れてアシスタントを卒業し、自分の城を手に入れ約束された椅子も手に入れた。新しいアシスタントも入った。
それなのにバディに言われたコーヒー入れも雑用も断れない。
本当にここは新しい、手に入れた夢の場所なのか?前と何が変わったのか?

はたから見ればただの歓談シーン。
怒鳴ったり、理不尽なことを言われたり、暴力を振るわれているわけではない。
でも私は最後の歓談シーンが劇中で一番のマウント・パワハラシーンに感じた。
冗談を言うかのように、明確に立場を示すバディ。
何も知らず、お気楽に茶々を入れてガイにジェスチャーをするジャック(伊藤公一さんのここのジェスチャーが本当に楽しそうで思わずつられて笑ってしまいました)。
このジャックの何も知らないがゆえの純粋なリアクションが、秘密を共有したバディとガイの影をより一層際立たせてて、ま~~~~~~エモい。
オフィスにひとり残るガイ。
この時のガイの心にあるのは絶望なのか虚無なのか。
これほどまでに田中圭氏がどんな表情してるか見たいわ~…ってなったシーンはない。本当にどんな表情してたんだろう。

バディは本当に命がけで昇進をもぎ取り、それに敗れたドーンの行方はいざ知れず。
あれだけドーンに愛を語り必要としていたガイ(それこそ見ていてたまに「えっそんなにドーンにおぼれてるんだ!?」って勢いにびっくりするぐらいで、そこに関しては後述します)が、最終的に選んだ道、個人的にはすごく納得がいきました。まあそうだよな…みたいな。
ラストシーンはっきりとは明言されなかったけど、ガイはドーンを切り捨て踏み台にする道を選んだ。(殺したのか投獄されたのかなんかぼかしててわからなかったんだけど前者ということでいいのかな)

物語冒頭、バディがガイの名前を聞いて「男の中の男って意味だ」と言ったのをこうもどストレートに体現するとは。
バディのいう「大人の男」に名実ともにガイはなったわけです。いや~~おめでとう!!!ドンドンパフパフ

いやまあ一般的にはかなり後味が悪い終わり方なのかな…と思うんですが、個人的に納得いく流れだったのであまり後味の悪さは感じなかったです。
バディがドーンやガイにも破れる姿が想像できなかったのもあったし、そもそもあの戦い、バディの敵はステラであって、ドーンもガイがもバディから見れば利用できる手ゴマのひとつでしかなかった。あの机の上にあったぜんまいのおもちゃみたいに。
むしろバディが破れるエンドだったら「そんなうまく行くか~い!!」って逆にモヤモヤしてたかもしれない。
ハリウッドのショービジネスの世界を象徴するであろうバディが簡単に敗れるなら世の中もっと違ってると思う。

テーマはどこか

劇中、ドーンがバディのプロデュースした映画評を述べた時、私は「この話ってバブルとか結構昔の話なのかな?」って思った。(あとで調べてみたら23年前と意外と最近(いやほぼ四半世紀前だけど)で私もしっかり生まれ育ってんじゃん!ってびっくりしたんだけど)
この原作があと10年遅く作られてたら、もっと違った結末になってたのかもしれないなあ…ともぼんやり思いました。

また、ドーンはバディに向かって「あなたはもう化石なの。」とも言い放ちます。
私はきいてて「めっちゃわかる~~~!!!」って思ってしまった。
だって今時会社でこんなバディみたいなこといってる人いたら総スカン…というか会社じゃなくても白い目で見られると思う。(実際の昇進や評価もそうであればいいのにね!ってことはおいといて。)
バディの言う価値観はこれ以上なくわかりやすい前時代的なもので、バディ自身が古き体制の象徴ともいえる。
対するドーンが象徴するのは、おそらくだけど新しい時代。
名前がドーン(夜明け)というところがとてもストレートだ。
これはバディにも同じことが言えて、その意味は仲間とか兄弟とか基本的に男性同士に対して使う言葉。
ガイもそうだけど本当にみんな名が体を表している。

正直私は世情に疎いし頭がいいわけでもないから、難しいこととか脚本や演出の意図なんてわかんないし、感じた感想をここに書きなぐってるんだけど、metooパワハラ・セクハラ人種問題等々が取りざたされるこの御時世に、この舞台をする意味ってなんなんだろう。
男尊女卑やパワハラをする人間は前時代的、現代は実力主義で男女平等なんて社会は言うけれど、実際の評価や役職はやっぱり男性優位だし年功序列だってまだたくさんあると思う。
(逆に「男性だから」「年上だから」と求められることが厳しくなるところもあるんだろうけれど)

ハリウッドがホワイトウォッシングやらmetooやら長年の習慣を一新しようとしている動きが表だって取りざたされているけれど、その動きは建前で、取りざたされている問題は氷山の一角で、この舞台の結末のように実際の裏では諸問題が根深く大きく広がっていて何も変わってないよってことなんだろうか。
そんな舞台を今の日本でやるってどういう意味なのかな……。
(※このへんまた最後で触れてます)

後味の悪い結末?

話は後味の悪さの話に戻るんですが、正直ガイの今後はさほど暗いものではないし、自分次第でどうにかなりそうだからあまり落ち込む必要ないんですよね。

もしガイがドーンに対して罪悪感を抱いていたとしても、やったことが消えるわけじゃないし実際のドーンの処遇の辛さを考えれば、ガイには「浸ってんじゃねえ~!お前はこれから泳ぎ続けるしかないんだよ!」って気持ちになっちゃう。(ガイごめん!笑)
いやだってガイはなんだかんだで社会的地位はしっかり手に入れてるんだし。

そんな感傷に浸るなら最初からドーンを蹴落とすべきでなかった…といいつつその辺の妙に甘い(バディ、ドーンがいう所のガキっぽい)ふり幅が大きいところがガイの魅力でもあると思うのでずっと苦悩していてほしいのはある…笑
ガイには本当に申し訳ないけど私の脳内で「苦しんでる君はきれい~♪」って DAOKOと岡村靖幸ステップアップLOVE歌ってるからしゃあないね。しゃあないんだ。
苦悩してもがき苦しんで上を目指してくれたらとても私のどストライクですがまあそう言うきれいなお話しではないのでさてはて…。
がんばれガイ!身の内のサメとどこまで泳ぐか、食べられないようにファイト!みたいな。


また脱線した。
後味の悪さを感じるとしたら、それはドーンのことを考えた時かなあと思いました。

ドーンに関しては後味の悪さを感じる前に丸のみされた感があって、あとからじわーっと胃が重いかも…ってなってる感じなんだけど。
ドーンが長年必死に戦って勝ち得てきたものが、ガイを信じ愛した瞬間に全て崩れたのがまずきつい。くわえて理不尽すぎる荷を背負わされてハリウッドどころか一般社会を退場させられた彼女に対する救いの無さはガイの比ではないと思うのです。(ドーン怒りの脱出とかそんな感じのやつでハリウッドを揺るがすぜベイベーとか勝手に考えないと私の心がしんどいくらい。)
そして更に言うなら、最後のガイはそんなドーンの今後のことまで考えてない…というか考えられないんじゃないかな。自分の犯した罪の重さに潰されるか、バディのように飼い慣らせるか…とにかく自分のことでいっぱいに見えた。
本当に罪を感じるならすぐに警察に走って自分の罪を告白すればいい。
でもそれをしていないのがもうすべて物語ってる。

ガイ→ドーンの愛

あれだけ口にしてたガイのドーンに対する愛ってなんだったんだろう。
ここで後述しますって言ってた話になるのですが、ガイのドーンに対する愛について。

バディオフィス初出勤時、ガイにとってドーンはハリウッド第一線で活躍するかっこよくて強く美しい…と恋心を抱くことすらおそれ多い存在だった。
そこから強引ながらも誘われた食事。映画に対する思いで盛り上がる会話……高嶺の花と思われた女性が自分の手に届く存在なのかもしれない…
このギャップ、そりゃはまっちゃう。

そんなわけでその一夜を境にドーンとガイは恋人に。(あまりの早さに騙されてないかちょっと心配になっちゃった笑)
バディオフィスでのガイのうかれっぷりは本当に最高で、おもちゃに対して「チュチュチュチュ~!」ってする様は最高に面白くてかわいかった。(心の中で「田中圭氏~!!!!!!」って叫んだよ…)
そのあとのバディとガイのやり取りもコミカルで可愛くて、田中哲司さんと田中圭氏のもともと持つ素かわいさなのでは…と思わせるくらいめちゃくちゃ面白かわいいんだけど(本当に面白くてかわいい!!劇中で一番笑えるところが多いかも。)、そんなシーンもバディはしっかり影を延ばしていく。 

「あの女がなぜたかがアシスタントであるお前に近づいたのか考えろ」
「(バディの言うとおりにやればプロデューサーとして)ドーンと同じ立場に立てる!」

始まったばかりの恋に浮かれたガイを現実に引き戻し、魅力的な言葉を告げるバディ。
バディとドーンに限らずなんだけど、やっぱり恋人と同じ仕事してて、キャリアや役職に差があるのってなんのなく居心地は悪い。プライベートは別だってわかってても、仕事に対して真剣ならよりそういう傾向は強くなると思う。
多分ガイの中にある「男らしさ」は「ドーンと同じ位置に立てる」というところに間違いなく魅力を感じていたと思う。恋人と対等な立場になれるというだけでなく、ハリウッドでの成功の第一歩が目の前にある。
「ドーンの役に立てる」という大義名分ですぐに覆い隠されてしまったけど 、ここからガイの中にある野心が水面の下に泳ぐサメのように静かに見え隠れし始めたように見えた。

物語は進み、ガイはドーンをバディ側に引き込むことに成功し、プロジェクトは順調に進行する。
そんな時、バディはガイに脚本を修正するよう指示をする。それがなければこの映画の話事態なかったことにしようという脅しもつけて。
脚本の手直しは絶対しない、それはドーンを引き込んだ時に出された条件だ。バディだってそれを了承したはずなのに!
でも確かに脚本の粗はガイも感じている。ここを直せば、ここをまとめてもっと分かりやすくすれば…バディの指摘につられて出てくるガイのシナリオ修正案。それを聞いたバディは珍しくべた褒めしそれで行けと言う。
(このべた褒めに関してはおそらくバディの本心だろうと思います。自分の手柄として売り込んでたし、質を求められていると誰よりも認識している人だから。)

もともと映画学校をトップの成績で卒業し、脚本家を目指す過程のひとつとして倍率の高いバディオフィスのアシスタントを勝ち抜いたガイ。プライドがないわけない。彼にだって積み重ねてきたものがある。
加えてめったにほめないバディが自分の修正案を絶賛している。飴と鞭ではないけれど、このガイの能力に対するバディの肯定は、ガイの中にあったドーンへの遠慮や約束を霞めさせるには充分だったはずだ。
でもそれだけではガイの中にある道徳心や倫理観…「人として正しくある」という気持ちは納得できなかったのだろう。
でもガイは自分の中にあるそれぞれの顔全てを納得させる魔法の言葉を得る。
「質のいい映画を作りたい」
ドーンも言っていた言葉。 嘘ではない、純粋に本心で思える言葉。
同時に恐ろしい大義名分ともなっている。

ガイはそれには気付かないのか、それとも無意識的に気付かないようにしているのか…。個人的には後者なのかなと思いました。
ガイに限らず、人間誰しも正しいことばかり選択できない。でも罪悪感を抱きその存在に気づいた時点で迷いが生まれ場合によっては自分自身を否定しなくてはならない。
カクテルパーティー効果みたいに、自分が生きていくために必要な心の声だけを聞き取っていかないとやってけないことってある。
ガイのドーンに対する愛は「質のいい映画を一緒に作る(いつのまにか「一緒に」になってるのもミソだった)」という大義名分の服の下でゆるやかに変質していっていたのかな…と思いました。

脚本の変更に対して約束が違うと憤るドーンに対して、ドーン自身が言ってていた「行動すべき」「自分で決める」という言葉に加えて「おっぱいついてりゃ許されるのかよ!」と「女であること」を責めたガイ。
実はこのセリフ、最初聞いたときなんかちょっと浮いてるな~って感じたんですよね。「おっぱい」って言葉のインパクトで浮いてるのかな~とか色々考えてたんですが。

ガイはずっと溜まっていた仕事の理不尽さや不満を、原因であるはずのバディではなく、ドーンの「女である」というドーンが仕事において弱みに感じている部分をあえて指摘して爆発させた。
「女だから」ではなくて「おっぱいついてりゃ」ってあえて下品な言葉を選択して言ってるのがドーンを煽ってる感倍増なんですよね…。
恋人なら多少の甘えをわかってくれる…というプライベートでなら許容される甘えと弱みをビジネスの話で引きずりだして怒りをぶつけたあの瞬間、ドーンに対する愛がガイの中でが変質してきているというか。
「ドーンの役に立ちたい」ではなく「自分の才能の方が勝れてより良いものを作れる」というのを押し出しはじめてる。

ただ、ここまで言っといてなんだけど、やっぱり「一緒にどこか何もないところへ二人で逃げよう」「ドーンがいなきゃだめなんだ」「ドーンが全てなんだ」とか、ガイのドーンに告げる愛の言葉ってかなり熱烈で、見ながら「えっそんなに好きなの!」って戸惑うことが多かったりしたんですが他の人はどういう風に思ってたんだろう。
田中圭氏の電話でドーンに愛を語るシーンはもう「ドーンが本当に好きなんだよ~」ってのがめっちゃ出てたから余計に混乱した。
だってガイの行動と言葉はちぐはぐなんだもん。

ドーンに別れを告げられたあとのガイの行動も個人的にはなかなかにビックリした。えっそっちいっちゃうんだ!?みたいな。(まずはドーンの所に走れよ!って言っちゃうのはきっとナンセンスなのはわかってるんだけど!)
ドーンに別れを切り出されすべて失ったと絶望したガイっていうのはわかるんだけど、やっぱそれまでに言葉でいうほどにドーンに溺れていないような行動が見えたから。
なので個人的考え付いたこのちぐはぐな違和感の正体は、「ドーンに対する愛とは別に、ドーンと共通の夢と目的である「質のいい映画を作りたい」という言葉に覆い隠されていた「脚本家として一人の男としてハリウッドで成功したい」という欲望がバディ植え付けられた価値観をもとに育っていたため」(長い)なら納得がいくなあと。
ガイは多分「自分はバディとは違う」って素で思ってたと思う。
でもミッツィに対する見方とか明らかに「どうせ低学歴の性の道具として消費される軽い女性」として下にみてるんですよね。気付かないうちに確実に価値観育ってる…というかまあもともとあったものかもしれないけど。

夢とか目的ってプライベートから見ても仕事から見てもすごい聞こえがいいし、パッと見ドーンの愛と両立できるように見えるからガイ自身も自分に騙されてしまったというか。

「仕事と恋愛どっちをとるの!」ってありふれてるけどよくある。
でも言われたって困る。どっちも生活を成り立たせてるものだし、片方が欠けても幸せな生活を送れるよ!って言い切れる人は多分少ない。っていうか誰だってどっちもとりたいと思う。
気持ちをどちらか片方にすっぱり分けるなんて無理だ。

ガイについてもそれは同じだと思ってて、彼なりに両立をしようとしていたし、加えて幼い頃からの夢を叶えたいというバイアスもあった。
バディオフィス初出勤時き最初に言われた「映画は商品だ」という仕事の本質に対するアドバイスを忘れて。

だからガイのドーンに対する愛は間違いなく本物だったと思います。
ドーンに告げた言葉も嘘いつわりない本心からの言葉ばかりだった。
(そうじゃないとあそこまで豹変しないと思うし)
ただ、それと平行して身の内で欲望が育つことは可能だったというだけで。
…ガイはどこまで自覚していたんだろう。
あの謝罪の時に自覚したのか、それともただこれから自分が行う罪に対する謝罪なのか…。
真相がガイの中にあるかすらわからないんだよなあ…。本当いきなりあやまるから急すぎてぼかあびっくりしたよ。

余談になるけど田中哲司さんの演じるバディが妙にかわいいのとガイとのコミカルなやり取りもあって、パワハラパワハラなんだけど正直ガイがあそこまで豹変する理由になるほどかな…という風に思ってたんですよね。
でも、上述の通りドーンに対する気持ちがでかかったからなのかな… と思うと納得できるのもある。
ガイは色々溜め込むタイプなんだろうか。
というか言動見てると一番自己愛強いのでは…という気がしなくもない…結末見ると……

正直この辺の豹変の急さに関してはもしかしたら公演を重ねるにつれてかなり印象が違うのかな~と思ってて、もう1回見てみたい気持ちがはちゃめちゃに…めっちゃあるんですがチケットご用意されてないので他の方の感想楽しみにしたい。
いや本当は私自身の目でめっちゃみたいけど!!!!泣

ドーン→ガイの愛 

対するドーンはどうなのか。
ドーンは少なくとも最初はガイを利用するために近づいたと思います。
そして自分より格下のさえないアシスタントと思っていた。
でもバディにつながる最初の窓口だ。取り次ぎは必ずしてもらう。なんだったら自分側にうまく取り込めないか…。
多分そんなビジネスの道具としてガイと関わりを持とうという感じだったはず。

でも二人でお酒を飲んで語り合い、ガイの擦れていない、純粋に映画を愛する気持ちに触れた瞬間きっと恋に落ちてしまった。
でもそれはガイのように浮かれて溺れるようなものではなく、自制心の働く大人の恋で…。
少なくとも、花束をもらうまではわりとビジネス優先でガイと付き合えてたんだろうな…と思うのです。

「花束をもらったのは初めてよ!」という野波麻帆さんの演技がまた絶妙でして…!
落ち着いたトーンでちゃかしつつ、「花束で喜ぶ」といういかにも女性らしい喜びが隠しきれていないあの声色と表情と仕草…遠目でもわかったよ…! ああー本当私の胸キュンシーン…抱きしめたい…。

自分が女ということを自覚して男社会で働くのは本当にしんどいし、何かあれば「女だから」の一言で弾かれてしまうことを誰よりも自覚していたドーンだからこそ、純粋に花束で喜ぶ姿をガイに見せたのは本当に彼女がガイに心許したからだったんだろうなあと思えてならないのです。

しかしその花束を送ったのはバディっていう…。
喜ぶドーンに対してその場でまっすぐ否定できなかったガイ。
一度は花束の送り主が自分ではないと否定しかけたくせに、脳裏にバディが浮かんだ瞬間明確な否定をやめてしまった。
ドーンがせっかく喜んでるから…というか気持ちではなく、バディの思惑があるのでは…と言う気持ちを優先したガイ。
意識的にしろ無意識的にしろガイはこの時点で間違いなくドーンを裏切ってるんですよね~…。
だから、ドーンがガイの裏切りを感じたきっかけがこの花束というのが、すごいわかる…ってなった。
ガイからすれば「花束のこと言わなかった」ってそんなに大したことじゃないのかもしれないけど、めちゃくちゃでかいよ…でかいんだよ…。
「女だから」を意識的に持ち出さないようにしているドーンにとって、花束を喜んで見せたのは相当の信頼の証だったと思うから。

ステラからバディに乗り換える時も、脚本の変更の時も、ドーンは目の前のガイを恋人として信頼すべきか、ビジネスパートナーとして信頼すべきかずっと意識的に見ていて揺らいでいたと思う。(そしてここがガイとの一番の違いかなあとも思う)
そして意識的に決断していたからこそ、裏切りの落差をより感じたのだとも。
なんだかんだでガイはバディのアシスタントだ。その言葉の裏にどこまでバディが潜んでいるのか、バディのアシスタントを経験した彼女が考えないはずがない。
ガイのことを信頼したい。でもどこまでしていいのか?
ガイの持ち出すプランは間違いなく魅力的だ。だからこそ恐ろしくもあったはずだ。
目の前の恋人は嘘いつわりなく自分に愛をささやいているからこそ信じたい。でもハリウッドで成功するためにはそれだけでやっていけるわけじゃない。
脚本の変更を持ち出された時、女であることをいいわけにするのか、とガイに詰められたドーンの気持ちはどんなものだったんだろう。
それまで見せていた恋人の顔の下から違うものが見えた時、感じたのは恐ろしさか失望か…
このへんももっと近くで表情見たかった…。

ドーンはきれいな女?

終盤のシーンでバディはドーンがハリウッドで上り詰めるために自身の身体も使っているし、お前が思うほどきれいな女ではない!とガイに何度も告げるのだけど、果たしてどこまで本当なのかなー?と思うのです。

終盤のバディとドーンの言葉は見ているこっちも空間がぐにゃ~ってなるくらい何が真実なのかわからなくて混乱した(ここの田中哲司さん、野波麻帆さんの気迫は凄まじかった…)んですが個人的には半分真実なのかなあと。

半分というのは、ドーンが最初にガイを食事に誘ったように、チャンスを掴むために食事くらいは間違いなくしてると思う。例えば普通に営業とかでもお客さんと仲良くなって損することはないし。接待的なものも含めてあっても不思議じゃない。
ただバディの言うような身体をひらいたというのは疑わしい(と私が思いたいだけなのかもしれないけど)かなーと。
だって、ガイがドーンと付き合ったと知った時のバディの驚きよう、ドーンに対してたまに見えかくれする「ものにしてやろう」とする感じ。
少なくとも確実にドーンとバディに肉体関係ないだろこれ…って思った。ミッツィとドーンの扱いの違いとかがわりと顕著なんだけど、バディは釣った魚には餌をやらないタイプっぽいし。
そもそもドーンが誰にでも体を差し出すようなやり方をする女性ならバディもああいう態度はとらなさそうだよな~~と勝手に思ってしまうのです。あとそんなやり方だけで登っていけるほど甘くないでしょ…。

ドーンは自分が魅力的なことはもちろん自覚しているだろうし、その上で相手を食事に誘うってことはあったと思う。でもそこまでかなーと。
ただ彼女自身の仕事スタンスを見ると、その食事の誘いで「女ということを武器にすることを多少なりとも意識していた」ことすら彼女にとっては引っ掛かる部分でもあったのかな…と。
(この辺ミッツィと大きな違いだな~と思うんですが)
まあそんなわけでドーンは真っ白とはいかないまでもバディの言うような嘘つきな女性ではないのかなーと個人的には思いました。

でもガイは自分とドーンの馴れ初めでしかドーンのことを測れない。
加えて何もかもタイミングが悪すぎた。
「どうしてお前に近づいたか考えろ」と言ったバディの言葉がここでじわじわ効いてるのが恐ろしい…。

真っ白な人間なんてこの世にいるわけないのに、やっぱり好きな相手にはきれいなものを求めてしまうし、ガイのドーンに対するものも例外ではなかったのかな…と思うのです。
身勝手な話だけど。

それを割りきってるのが大人で(割りきりの程度に差はあるけど)、ガイはまだそこまではいけなかったし、間違いなく純粋ではあったんだよな~…とここまで打ってて改めて思ってしまった…。(そしてだからこそ自分自身にも徹底的に嘘がつけたのだなあとも。)
そういう純粋さがあったからこそドーンも惹かれたし弱さを見せれたのかと思うんだけど…その代償でかすぎませんかね…。
ドーンのように闇に葬り去られた女性がハリウッドにどんくらいいるんだろう…。

ミッツィはそういう意味ではかしこいし強かだ。
大学名を告げるシーンは笑いの起きるシーンとして処理された(実際ミッツィがガイとジャックにしてやった!って小気味よさで面白かった)けど、そんな女性がコールガールを選択するに至った経緯を考えるとなんとも言えぬ気持ちになる…。
彼女はどんな気持ちでハリウッドの街を歩いてるんだろう。

だれが悲劇の主人公?

ところでここまで打っててやっぱりひっかかるのが、ガイが悲劇の主人公みたいな作りになってるのは何でなんだろうってところ。
ここまで整理してもやっぱ一番割り食ってるのは間違いなくドーンなのに。
このへんさすがに意図的にやってるとは思うんですけど本当なんでなんだ。
まあその理由はわからないからここまでだらだら感想打つことになっちゃったんですけど!

ドーンに起こった悲劇の事実すらなかったことにしてしまう、それどころか一人の男の感傷に浸るためのただの材料にされてしまう、そういうハリウッドの世界における男尊女卑の男性側の驕りを皮肉ってると考えるべきなのか…うーーんわからん!
少なくともガイの名前はめっちゃくちゃ皮肉ってるな~~って思ったんですけどいかがでしょうか。

サメについて

さてこの長い感想もようやく終盤に近づいてきました。
イエーイここまで読んでる人いる?私は打ってて自分で長い…って思ってます。

「サメと泳ぐ」って結局なんだったんだろう。
もともとのタイトルは「ザ・プロデューサー」ということでサメ全然関係ない…。
原作はその辺触れられてたりするのかな。

実際のサメってよくある「ジョーズ」のイメージみたいに人をぽんぽん襲うわけでもないし、数キロメートル先の血のにおいをかぎ取るって言うのもデマで、たしかに危険な生き物ではあるけどむしろ保護活動があるくらいの状態で…みたいなことは知ってたんですが、その辺も含めて「サメ」って言ってるのかはわかんないです。

まあそんなサメマメ知識は置いといて、最終的にサメって「人の純粋な心を食べる欲望」なのかな~という所に落ち着きました。(というかこのへんで落ち着けとかないとどこまでも深くできそうだなと言うのもある)
そのサメとどう泳ぐか。
登場人物全員が心の中にサメを飼っていて、その存在に気づいたり、気付いていなかったり、折り合いをつけてどうやって一緒に泳いでいくのかそれぞれ模索していたように私は見えました。
バディは身の内に飼っていたサメに食われてサメそのものになった…って感じなのかな。

バディについて

いきなり余談なんですが、バディはサイコパスの気があるのかなあ…とか思ったり。(環境の後天性考えるとソシオパスのが正確なのかな?)
バディのやってること最後のドーンの処遇とか含め本当えげつないんだけど、バディを嫌っていたダニエル・ファラクを一瞬で虜にしたり、 ガイの仕事の手柄は罪悪感なく自分のものにしつつフォローは忘れず…(脚本のことばれてたけど)と基本的にそつがない。
加えて田中哲司さんがあんまりにバディをチャーミングに演じられるので本当パッと見ただの魅力的な人なんですよね…こわ…。

バディの昇進に対する異様な執念は10年間の下積みの間に歪んでしまった結果なんだろうか。
それまでの苦労が大きければ大きいほど、それが解放されたときの昇華しようとする反動って大きいと思う。
パワハラの連鎖。最後のガイにも見えた片鱗。
あの拷問シーンで終始一貫して自分の正当性を唱え続けたこと含めて、バディはまともな神経の持ち主ではないと思います。

ただ、私には「俺は10年だ!」っていうあの言葉だけはバディの心からの叫びのように聞こえたのです。
だからといってバディのやったことは許されないんですけど。
ガイが「質のいい映画を作りたい」ということを大義名分にしたように、10年耐えぬいたという事実がバディを支えた大義名分だったのかな…と考えると…。
パワハラを耐えぬいた結果がこれならあまりにも悲しいことだな…と思ってしまう。

パワハラ・セクハラってよっぽどあからさまじゃない限り、受けてる時は認識できないし、心身ともに追い詰められてるから正常な判断できないんですよね…どんどん擦り減らしていって、つぶれてダメになってその場を離れて初めて気付いたりするパターンの人結構多いんじゃないかな…。
離れても、ふとした瞬間でフラッシュバックしたり。自分をこんな風にしたやつらも憎くて仕方ないし、なによりそんなカスみたいなやつらに未だ苦しめられてる自分が情けないし悔しいし…。でもそれを根本から理解して助けてくれる人なんていなくて、もし奇跡的に何らかのサポートがあっても、結局最後は自分で立ち上がるしかない。

先述したようにバディのやったこととかバディの考えとか何一つ受け入れられないんですけど、それでも彼の「俺は10年だ!」の叫びだけは個人的にとても悲痛で胸に響いたのです。
どこまでも嘘か本当かわからない彼の言葉のなかで、これは真実だったらいいなと思いました。

時代は言い訳にできる/舞台は本当にハリウッド?

あとサイラス社長。
バディと同じことしてきたはずなのに、家庭を得て引退時期に入り、孫という愛するものができたとたん、バディ含め自分を支えてきたものを体制ごと悪びれなく切り捨てるんですよね。
「だって世の中がそうなってるから」って。

彼だってやってたのに!って責めることは簡単なんだけどそれができるのはどれだけいるんだろう。
世の中全体がそうだった時の罪を程度の差はあれ一個人をあげつらって、後から来た関係ない人たちが責めたてるのは何か違う気がする。
その場合個人を責めることができるのは被害者、それ以外の人はその時の社会体制や時代背景なのが基本だ。
事実、サイラスに一番無理難題を押し付けられていたであろうバディはそれを責めず、迎合しすり寄った。
世の中の理不尽さと、今後自分が生き抜くための天秤を一瞬で計った。

昔整っていなかった環境を整えていった先駆者に対して経緯は払うべきだと思う。
その先駆者達が同じ苦労を求め始めたらもうそれは害でしかないんだけど。

でも、人間だれしもそんな綺麗な気持ちだけで生きていけるわけじゃなくて、嫉妬や羨望も抱く。
文化や環境はそこに住む人達が適応し生きやすく住みやすくするために彼ら自身で形作った結果だ。
ハリウッドという世界最高峰のエンターテイメントの世界は煌びやかで華やかだが、そこでのし上がるには生き馬の目を抜くように生きていかなければ生き残れない。
人のことを構ってる余裕なんかない。そんな中を生き残り、かけ登った人々が作り上げた結果が今になったのか…と思うと本当に途方もない。
昨今のハリウッドの動きは、エンターテイメントを見る側が時代と共に変わり、ハリウッドが求められる姿がかわったからこそ、変わっていっているのかな…と思う。

で、今回の舞台がハリウッドだったからハリウッドっていったけど、別にこれハリウッドに限った話ではない。
というかこの「サメと泳ぐ」はあまりハリウッド感がない…というかハリウッドの抱える問題を言いたいようにはあまり感じられなかった。
現代日本社会で受け入れられやすいような形にある程度変更とかしてるのかな…という気がちらちらしたんだけどどうなんだろう。こういう違和感も織り込み済みなのかな?
やっぱり原作をきちんと読むべきなのかなあとは思うのですが、今回の感想は「舞台:サメと泳ぐ」の感想なので、純粋に舞台を見た感想としてここで止めておこうと思います。

P.S:しかし最後まででてこなかったステラ、かなりすごいですよね…どんな女性のか気になるよ…。
トムクルーズと川下り一緒にできる時点でなんかもう一般人じゃないわ…ってかんじなんですけど。
彼女とバディの戦いも見て見たかったな。

おわりに

ここで本当におわりです。
ここまで読んでくたさった方、もしいらっしゃったらありがとうございます。

色々長々しゃべりましたが、内容
含め見る前から見た後まで、こんなに喋ることいっぱいあるならもうそれだけでめっちゃよかったといえる…。
あと生の舞台って本当にパワーがすごいし、生き物なんだな…ということが体験できました。役者さんたった7人であの舞台が成立してたのがいまだに信じられない。
見てるこっちがこれだけ圧倒されてへっとへとになったんだから演じられてた役者さんはどんだけパワフルなんだ…。
そしてその裏でこの舞台を作り上げるためにどれくらいの人達が動いてるんだろうと思うと、なんかもうそれだけですごい…ってなってしまう。

また違う舞台も見てみたいな。次は同じ舞台2回は見てみたい。
何回も見て、役者さんの演じる解釈が変わっていく様を感じられるの絶対楽しそうだもん~~~!

そんなわけでサメと泳ぐ、感想ここまで!!

本当に楽しかったです!
素晴らしい体験と時間を下さった一座の皆様に感謝!

ありがとうございました!!!