sukikatteni’s blog

好き勝手つぶやいてます。

ルックバックの感想というか、作品公開の在り方について

 

※実在の事件に2つ触れています。

※作品の感想というよりは、「作品の公開方法」に対して肯定的な感想ではないため、読む際はご注意ください。

※あくまで個人の感想のため、他の方の感想を否定するものではありません。こういう感想もあるんだな、くらいの気持ちで読んでいただければと思います。

 

 

ルックバック - 藤本タツキ | 少年ジャンプ+

shonenjumpplus.com

 

読みました。作品として構成も流れも本当にとても良くて、悲しみや怒りややるせなさとともに、でもそこにフィクションだからこそ見出せる希望や生きることに対してやら諸々の祈りも感じてて、すごいなあ…いいもの読んだなあ…と思いました。


映画や歌の所はあまり知らなかったのでツイッターの識者のツイート見たり調べたはりしてなるほどなあ…そういう意味でも感心しきりでした。
本当にすごい作品で、読めてよかったなあと思います。

そして心を色々動かされたからこそ、自分の心を整理するために今文字打ちをしてるわけで。
いやほんとすごいよかったと思う。作品として。

 

 

ただその作品の完成度や訴えてくるものとは別で、下書きにしているであろう事件とその被害者と遺族等の実在の人たちに対する配慮はやはり必要だったのではないかなと思いました。

少なくとも、この内容とタイミングで発表するなら事件を想起させる描写があることを明確に出しておくべきだったと思う。

おそらく…というかほぼ間違いなく京都アニメーション放火殺人事件をと精華大事件を意識されてるよなあと。
精華大学事件は事件の日付(実際の事件は15日付)や犯人の挙動諸々の事件内容で。
京アニの方は犯人の言動や動機をはじめとした事件内容もだけど、事件から2年のこの日のタイミングでこの作品を世に出すのは完全に意図してだろうとは思います。

 

ただ、その本当の意図はわからない。
追悼としてなのかもしれないし
事件に対する藤本先生なりの心の整理の結果生まれた作品なのかもしれないし
その両方なのかもしれない。

何らかの問いかけをしたかったのかもしれないし、編集部としては話題になるタイミングをあえて選んだのかもしれないし。

作者から読者に届くまでに、編集者、編集部、掲載媒体とたくさんの人の手を渡っているからその意図がどこにあるかなんてわからないし、全部違うかもしれない。

本当に純粋な祈りだけであればいいとは思います。でもそれなら世界に公開する必要はないから、やはり誰かに伝えたいものは明確にあると思う。
ただ、祈りは尊いものではありますが、その内容や行動が全ての人に共感されるわけではないものであることも事実です。

 

何が言いたいかというと、これは藤本先生が悪いというより、その作品の公開方法について編集部や集英社はもう少し考えるべきではなかったのか。メディアを取り扱う仕事であることについての自覚と怠慢は大きいのではないかなと感じました。

表現は自由だし、そこに作者がどういう意図を込めようが読み手の数だけ解釈は生まれてしまうので、作品に対して配慮を!!と求めるわけではないです。
何かしら形にすることでしか心を癒せないことがあるのもわかります。


ただこれだけあからさまに特定の事件を想起させる表現を出すことに対して、ブレーキをかけずにアクセルを踏んで作品を完成させた藤本先生については、やっぱ色々感性ぶっ飛んでんなーと思うし、それくらいの勢いがある人だけからこそ生まれる強い作品はやはり存在するんだろうなと、物を作る人間の端くれとして素直に感心しました。
その中にいろんなメッセージを少しずつ込めていく繊細さがあるならやっぱりこの人は正気でこの作品を作り上げたんだろうなあとも。

だから何回も言うけど、作品の強烈さを責める気は全くなくて、本当にすごくいい作品だと思います。

 

でもこれだけ展開されて誰でも読めるウェブメディアを使い、少年ジャンプという雑誌の中でも宣伝を行い(少ないとも電子版では広告あり)、話題になることを狙っている方法で公開をするなら、一定の配慮は必要だったと強く思います。

一言でいいから実在の事件を想起させる表現があるというべきだったのではないかなと。
それによって作品を読んだ時に与えられる衝撃が薄くなるというのは確かにあるかもしれないけど、それは未だ苦しむ多くの被害者や遺族に対して配慮をしなくていい理由にはならないでしょう。

何でも「追悼」ってつけたら良いってもんじゃないし、もし追悼の意図を込めたのであれば尚のことそれは最初に明記すべきだったと思います。

それと同じ理由で、誰かの本作品に対する感想を「追悼の作品だから素晴らしい」「追悼で生まれた作品を批判するな」という言葉でねじ伏せようとするならお門違いだとも思います。
「追悼の気持ち」が尊いものであったとしても、それが万人に受け入れられるための理由にはできないし、してはいけない。


勿論、この作品を読むことで気持ちが救われる人だっているだろうと思います。

例えそうだとして、通り魔のようにフラッシュバックさせるみたいに、いきなり事件を想起させるものを事件発生日というタイミングで出すのは、それが意図的ならなお悪質だと思ってしまった。
命日で静かに心を落ち着けていたであろう人たちの心を「良い作品だから」を理由に踏み荒らして良いとは私は思えなかった。

そして、それは作品の責任というよりは、掲載の仕方を決めた編集部並びに集英社の責任が大いにあると感じています。

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7/19になったばかりの時間、ちょうどルックバック公開と近いタイミングで下記のドキュメントがやってました。

京アニ事件が投げかけた問い~.
NNNドキュメント'21.
2021年7月18日(日)25:05~26:00.

news.mynavi.jp

◼️再放送等の情報はこちら

遺族とマスコミ~京アニ事件が投げかけた問い~|NNNドキュメント|日本テレビ

 

京都アニメーション放火殺人事件は報道のあり方を強く問われた事件としても記憶に新しく、その焦点は報道機関の「国民の知る権利に奉仕という役割」と「遺族の意向を無視した実名報道」、それに対する社会的意義と批判に対して、マスメディアとしてどう向き合っていくべきかという内容でした。(興味が湧いた人は見て損はないかなと思います。)

 

2年前事件発生時、その実名報道に対してTwitterでもかなり荒れていたなーという記憶も新しく。
日テレは確かニュースZEROが当時実名報道を行っていて、そのテレビ局が作ったこのドキュメントはどういう形に落ち着くのかな…と思いながら見ました。そこに関しての所感は今回の主題ではないので置いておくとして。


雑誌ってひとつのマスメディアなわけです。
その内容が報道ではなかったとしても。フィクションだったとしても。

作品を世に出す前に最終チェックやその露出の仕方を考えるべきマスメディアたる人たちが、話題性を優先してこの公開方法をとったとするなら、やっぱりどうしても受け入れづらい気持ちがわたしの中に強くあります。

 

どれだけ作品が素晴らしくても、そこにどれだけの素晴らしい感情を込められていたとしても。
話題性を優先して、誰かの気持ちを踏み荒らして良いとはやっぱり思えなくて。

 

生きてる人たちはまだこれからその傷や感情に向き合わなくてはダメで、途方に暮れてまだ動けない人だってきっといて。

勿論、そうじゃない人たちだってきっといて、前を向いてる人も、それどころじゃない人も、気にしてない人もいるかもしれないし、感情はその人の持つ自由なものなのでそのことに対しての良し悪しを語るものではありません。

 

漫画の中で藤野は立ち止まらなかった。
京本がいなくてもそれを受け入れられてなくても、でもまず前に進む選択をして。それはとても強くてすごいことで。
やるせなくも、祈りのようなものを感じる力強いラストだなと思いました。

 

でも、現実で今なお苦しむ人たちに、その選択をしようなんてとても言えないでしょ。
(藤本先生がそういうメッセージを持って描いてる!という話ではないです。)

今回の公開の仕方はそういう危険も十分に孕んでるという話です。
未だに事件の渦中を生きている人達がみんなルックバックよんでるでしょ!と言いたいわけでもなくて。

でもこんだけ話題になって(話題にさせるような公開の仕方で)、このSNS社会で「まったく目に留まらない」方が難しいという話で。

 

ルックバック、本当にいい作品でした。
夢中なことを見つけてキラキラと進んでいく子たち。あったかもしれない、あるはずだった未来を突然奪われる理不尽さとやるせなさ。それでも前に進もうとする強さ。生きてる人には平等に時間が進む。心の時間に関わらず。
祈りや人の強さを信じたい希望のようなものを感じて。
すごく力強い作品で、本当にいい作品だと思います。

 

そして、現実の事件をここまで想起させるような(そしてそれがきちんと話の中で説得力と意味を持つのがすごいんですが)描き方をするなら、公開方法についてその関係者や当事者についての配慮をやはりしてほしかった。作品がすごかっただけ、比例してその思いが強くなってしまった。

 

バズれば、話題になればそれでいいんですか?と編集部と集英社に問いたくなってしまった。
作品とは別に、そこがどうしてもやるせなかったです。

 

以上、とりいそぎの感想です。